〈少年詩人〉アルチュール・ランボー

 西川徹郎は昨年2019年5月、フランス文学研究の日本の第一人者で神戸市在住の作家・演劇家・翻訳家・詩人である鈴木創士氏より、鈴木氏が全翻訳を行った河出文庫『ランボー全詩集』(A・ランボー、翻訳・鈴木創士/2010年2月20日、河出書房新社)の寄贈を受けた。西川徹郎記念文學館の対象作家西川徹郎が十代の日に新城峠の頂に立って大雪山系の白銀の尾根を仰ぎつつ遥かにその彼方に憧憬した世界の詩人がボードレールであり、そしてA・ランボーだった。
 2019年10月26日夕刻、文學館恒例の「西川徹郎記念文學館 錦秋の夕の市民集会」を「詩と表現者と市民の会」主催により開催した。館長・學藝員の筆者は「少年と文学―西川徹郎の世界」と題し、講演を行った。
 少年詩人といえば、A・ランボーと共に、今日まで〈永遠の夭折者〉と称ばれてきた西川徹郎の名を掲げてよいであろう。筆者はA・ランボーが忽然とパリの文学界から姿を消し、アフリカで貿易に携わり、商用で絶え間なくアラビア、アフリカを行き来しつつ、やがて右足の腫瘍によって37歳で死に至るまでの間、決して彼は筆を折ることなく、最期まで詩人として生き続けた事を語った。
 絶えざる歩行、絶えざる前進は詩人のすがたそのものである。詩人の魂は今も砂漠の遥か天空に花火のように打ち上がり続けている。都ではしめやかに雨が降った。砂漠では詩人はサイクロンを纏って移動する。片足を切断したものの全身は既に癌に冒されていたA・ランボーは、死の床でも、旅の夢を見ていた。今際の際、乗船許可を願う手紙を妹に筆記させる。「海運会社の支配人宛 マルセイユ、1891年11月9日」の手紙は、「分け前、象牙一本のみ。/分け前、象牙二本。/分け前、象牙三本。/分け前、象牙四本。/分け前、象牙二本。」(鈴木創士訳『ランボー全詩集』より)という積荷の記載から始まる。翌10日死去。詩の牙を携え、新たな旅を夢見る詩人の姿は、松尾芭蕉の辞世「旅に病で夢は枯野をかけめぐる」を彷彿とさせる。
 筆者のこの講演の後編は、本年2020年秋開催の「西川徹郎記念文學館 錦秋の夕の市民集会」で行う予定だ。
 

〈永遠の夭折者〉 西川徹郎第五句集『町は白緑』

 西川徹郎の第五句集『町は白緑』(1988年・昭和63年/栞文 立松和平・青木はるみ 沖積舎)の中の一句
  山で倒れた記憶するどい鳥がいて   徹郎
が、筆者の西川文学との出会いだった。この句は「少年」という題のもとに収められており、その前後には、
  口腔に鳥詰め少年死んでいた     徹郎
  青むしはゆびで潰してゆめ煙る
という『不思議の国のアリス』さながらの光景が置かれている。私はそれらの作品を複合して掲出の一句を読み、森の下草にうつ伏せに倒れた少年のすがたをイメージしていた。
 句集等の中で、一句から数句、数十句、百句を超える作品に小題を付すのは、西川徹郎独自のデビュー以来の書き方である。それは日本の詩歌伝承の季語・季題主義への異義を唱え、歳時記の中の固定固然とした自然観や社会観を否定し、あくまでも〈十七文字の世界藝術〉成立へ向けた、作家自身の思想と哲学に基づいた主題で創作するという詩人=文学者本来の根本的な主張を顕示することである。
 この作品集の「少年」の項には、明らかに西川徹郎の「少年」がいる。
 海浜で育った少年が日夜波の光の彼方を見晴るかして育つように、山国で育った少年は日夜山を仰ぎ森や林の木々の葉擦れの声を聴きながら育つ。西川徹郎もまた、新城峠に連なる峠の町の外れに建つ生家正信寺の境内からイルムケップ山、音江山、沖里河山の所謂音江連山の山端に落ちる火炎のような夕焼けを見て育った。深い森林に覆われた寺の裏山の落葉松や雑木林の中の道は、少年詩人の果て無き詩想と思索と哲学の格好の小途だった。
 小高い裏山の頂きからは東西の景色が見下ろせる。日の昇る方向には東山と呼ばれるパンケホロナイ山の麓に本流地区と呼ばれる水田や山畑が広く開け、日の沈む西山の方角には足下に生家の大きな寺屋根、そして寺の伽藍の正面に聳える仙台山へと続く真白い一本道が続いている。空の高みには無数の小鳥が叫びながら飛び交い、目の前では熊ん蜂がうなりながら灌木の茂みに出入りする。目には見えないが沢山の蝦夷鹿や狐、狸や無数の栗鼠や狢が生息し、彼等が辻辻に不図(ふと)現れたりするのが詩人の生地新城峠の里山だ。

現実と非現実、不可視の狭間

 不意に少年の耳許を掠めて急降下してくる鳥がいる。
  山で倒れた記憶するどい鳥がいて  徹郎
の一句については、かつて筆者は次のように書いた。
 「山で倒れた記憶がある。山で倒れた記憶のある鳥がいる。山で倒れた嘴のするどい円らな瞳の鳥のイメージが読む者の脳裏に映る。その鳥は、鋭い嘴で記憶を啄む鳥であり、同時に記憶に啄まれて山で倒れた鳥である。幾重ものイメージが次々と押し寄せるこの一句は、時間というものに楔のように打ち込まれた「記憶」と、「記憶」という時間、二つの時間のずれと、その亀裂の鋭さを鳥のイメージに集中させては、森閑とした奥深い山中へと返す」(『口語俳句年鑑2010』2010年、口語俳句協会)
 この時は、「時間」というものを表現する一句として読んでいたが、今は、作者の作品の配置の指示に従い、倒れているのは少年であると取りたい。この少年とは誰か。少年は同時に鳥であり、鳥は少年の記憶でもある。少年は日夜鳥の嘴に啄まれ、全身から血を流したまま現実と非現実の不可視の狭間に永遠に立ち尽くしている。それは詩人という名の身体それ自体の暗喩なのだ。
 記憶を文字通り読めば、記(しる)し、憶(おぼ)える、そして憶(おも)うことである。
  口腔に鳥詰め少年死んでいた     徹郎
 世界を感受し思惟し表現する、片手に手帳を持って自転車を漕ぐ学生帽の少年は、既にして紛れもなく〈詩人〉である。
 この作品集『町は白緑』の「少年」の項には、〈永遠の夭折者〉と称ばれる少年詩人のすがたが描き出されている。

第十三句集『銀河小學校』と笠原伸夫著『銀河と地獄─西川徹郎論』

 更にその少年の運命が克明に描かれるのは、『西川徹郎全句集』(2000年平成12年/普及版2001年平成13年/解説・吉本隆明「西川俳句について」、沖積舎)の刊行の二年後に出版された第十三句集『銀河小學校』(2003年/平成15年、沖積舎)である。
 既刊十二句集、総句数五千三百余句を収録し、どの作品も季語季題を用いず、十七文字の時空間に身体性の強い暗喩を重層的に構成し、超現実的な未知の詩的言語世界を形成する実存俳句創始者である西川徹郎の五十三歳にして刊行された『全句集』は、巻末掲載の日本近現代を代表する思想家である〈知の巨人〉吉本隆明(1924~2012)の解説「西川俳句について」と共に日本の詩歌界や文壇へかつて無い衝撃を与えた。
 のみならず、西川徹郎は『全句集』刊行後に、その全句集とほぼ同数の五千余句を一年六ヶ月で書き下ろし、新たな俳句革命の一冊として刊行したのが、第十三句集『銀河小學校』である。
 この『銀河小學校』全三十四章の半ば近くに「鳥葬」と題された章がある。「泉鏡花論」で一世を風靡した文芸評論家・日本大学名誉教授 笠原伸夫(1932~2017)は『銀河と地獄―西川徹郎論』(西川徹郎文學館新書①、2009年/平成21年、茜屋書店)に於てこの章を冒頭で取り上げ論じている。
 笠原伸夫は、「鳥葬」とは、西川徹郎の強烈な「心象であり、映像であり、影」であり、「西川徹郎の詩的言語のもつ身体性が極限のイメージを呼び起こす」(同書)と述べる。更に、「鳥葬」が必ずしも死のイメージとは直結しないことを指摘する。「鳥葬の鳥」はまず並木に止まり、電線に止まり、秘かに手を伸ばすかのように羽根を路地に落とし、戸の隙間から入ってくる。のみならず、
  ガラス戸破り鳥葬の鳥雪崩れ込む    徹郎
という事態となり、「鳥葬の鳥」は「町じゅう」に充ち満ちる。空間ばかりか「鳥葬の鳥」は人生という時間にも闖入する。
  鳥葬の鳥紛れ込む華燭のホテル    徹郎
  臨月待つ人鳥葬の夜を数え
  鳥葬にまぎれて飯炊く山の婆
 笠原伸夫は「鳥葬」章の構成を「物語性をもつ展開」とし、「この五十七句の連作のなかで、鳥たちはヒチコックのカモメのように獰猛な目をかがやかせ、いきいきと乱舞する」と締めくくっている。
 笠原伸夫は何故、一巻の西川徹郎論の冒頭において「鳥葬」章を論じたのか。それは同論文の結論部分に至って明らかとなる。
 「何故いま俳句なのか。西川徹郎なのか」。笠原伸夫は、〈表現〉とは本質的に〈伝統と現代〉の問題であるとして定型を論じてきており、かつて「極端なことをいえば、定型をもった伝統芸術の継承者は、その型のなかで、型との相克の末に斃れるべきなのかも知れぬ」と述べている。そしてこの西川徹郎論を次のように結ぶ。「西川徹郎の方法はつねに尖鋭であり、原則十七音の俳句形式への断絶と連続という背理的な形での自負につらぬかれている。(略)現代文化の渦潮のなかに、かれはかれの方法をかかげて明確な主張を指し示す。一言でいえば「反俳句の俳句──反伝統の伝統」である」(同書)
 「鳥葬」とは死者の弔いではなく、まさに生きながら斃れ、斃れつつ生きる表現者=詩人のすがたが描かれた作品なのである。それゆえ笠原伸夫は、岸壁にへばりつき、獰猛な鳥たちに啄まれながら、この苛酷な闘いを生き、書く詩人のすがたを、論の冒頭に掲げたのである。
  人肉の朱さを灯し頂は   徹郎 『銀河小學校』「鳥葬」章
 この一句は「世界文学」と呼ばれる洋の東西の詩作品の中で、未だ如何なる詩人によっても表現され得なかった未曾有の惨劇としての「鳥葬」であり、〈十七文字の世界藝術〉なのである。
 外にも次のような鮮烈な少年の姿が同作品集には収められている。
  少年よ夜風に火傷の頬さらし   徹郎 「銀河小學校Ⅱ」章
 第十三句集『銀河小學校』、此処にも、そそり立つ苦悩の北壁を如何に越え如何に生きるか、この人類普遍の難題と対峙する永遠の少年詩人西川徹郎の身を賭した苦闘とその魂の戦場が描き出されているのである。

(斎藤冬海 Saito fuyumi)