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銀河系通信ブログ版 2020年04月10日
〈異界の戦場PARTⅡ〉──西川文学地獄変
国民的作家森村誠一は、西川文学を〈凄句〉〈凄歌〉と称んだ!
西川徹郎は、自らの文学を〈反定型の定型詩〉と呼ぶ。西川徹郎が常に語るところであるが、それは十七文字の文学を言語表現の究極的な世界藝術とし、詩や文学の世界の最前線に立つことである。身体性の言語を基幹にメタファを重層的に構成した西川俳句は、十七文字に哲学的思惟の世界と、無尽蔵の幻想世界とを現前させるのである。作家森村誠一が西川徹郎の文学世界を〈凄句(せいく)〉と称讃する所以である。
〈凄句〉とは、当文學館が2007年(平成19年)5月に開館して間もない2009年5月23日、初めて来旭来館した国民的作家森村誠一氏が、館内を埋め尽くした市民や森村ファンらの前で「西川文学と人生」と題した来館記念講演を行った中で、西川俳句に対して名付けたものだ。社会派推理作家である森村誠一氏は、「現実の社会が事実の中に〈虚構〉を嵌め込んでいくのとは逆に、文藝とは、虚構の中に〈真実〉を嵌め込んでいく藝術である」と懇切に聴衆に語り掛け、
荒海や佐渡によこたふ天河 芭蕉
姉さんのはらわた流す裏の川 徹郎
等の作品を挙げて、その艶麗や悽愴に彩られた文学の〈真実〉を指摘した。
この「西川文学と人生」講演録は、森村誠一著『永遠の青春性―西川徹郎の世界』(2010年〈平成22年〉1月15日/西川徹郎文學館新書②、茜屋書店)に収載されている。この講演の折「姉さんのはらわた流す裏の川」に施された森村誠一の繊細な解釈には所以があったことに、筆者は後に思い至る。五年後の2014年(平成26年)5月31日、西川徹郎記念文學館主催の「新城峠大學文藝講演会」が開校した。記念すべき第一回の特別講師として森村誠一氏が三度目の来旭来館、「小説の神髄―小説はなぜ書くのか、そして如何に書くか」と題して講演した。
森村誠一は、自らが小説を書く原点として、昭和20年8月15日未明に生地埼玉県熊谷市が受けたアメリカ軍のB2940機による空襲の経験を挙げた。当時人口5万人の町は、一夜にして焼け野原となり、市中を流れる星川は水を求めて川に向かった市民の死体で埋まった。森村少年一家は、「真ん中を行け」と叫んでモーゼのように家族を導く父親の言葉によって火炎の壁を割って川から離れ、辛くも難を逃れたのだが、しかし翌日、川底も見えない程の累々たる死体の中に、密かに初恋の相手と思っていた少女の姿を見つける。森村少年は、ものも言えず死んでいかねばならなかった人々の為にも作家となってこの光景を書かねば生まれてきた意味は無い、とまで思い詰め、作家を志したという。
それは、作家森村誠一の「小説の神髄」であり、一人の言語芸術家としての森村誠一の「文学の根拠」である。森村誠一は、西川徹郎の〈凄句〉に、この一句が書き留められなければ生きていくことが出来ないという一人の詩人としての書く根拠と〈真実〉をそこに見出したのだ。
この講演録は、学術誌『西川徹郎研究』第一集(2018年〈平成30年〉7月20日、西川徹郎記念文學館編/発行、茜屋書店発売)に収載されている。哲学者野家啓一、西川文学を語る
2010年2月、作家森村誠一の新刊本として発売されたばかりの森村誠一著『永遠の青春性―西川徹郎の世界』が、当時、読売新聞の書評委員を担当していた哲学者野家啓一(日本哲学会元会長・東北大学名誉教授・現河合文化教育研究所主任研究員)の目に止まった。
同年5月16日付「読売新聞」に野家啓一氏は同書の書評を執筆、西川俳句の世界について「寺山修司の歌集『田園に死す』を想起させる」と書く。これが、西川文学と野家啓一氏との縁となる。『修羅と永遠―西川徹郎論集成』(2015年〈平成27年〉3月15日/西川徹郎作家生活五十年記念論叢・A5判1200頁建、茜屋書店)に野家啓一氏の書き下ろし西川徹郎論「西川徹郎と寺山修司―西川徹郎句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』を読む」が発表された。野家啓一は詩歌にも造詣深く、青春時代に寺山修司の歌集『田園に死す』を読み、そこに「斎藤茂吉や石川啄木の短歌とはおよそ異なった、いわば極彩色の地獄絵とも言うべき世界が繰り広げられていた」ことに驚嘆し、魅了されたという。野家啓一氏は、同論文の最後に、「私版『マルドロールの歌』をいつか書いてみたい」という寺山修司の言葉を踏まえ、「西川徹郎の『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』一巻は、彼にとっての十七文字の遺書であると同時に、定型に託した西川版『マルドロールの歌』であると言ってもよい」と述べた。
更に学術誌『西川徹郎研究』第一集には、野家啓一氏の書き下ろし評論「死の影の下に―『西川徹郎青春歌集―十代作品集』を読む」が発表された。野家氏はこの論文で西川徹郎の十代の短歌作品と実存俳句をつなぐものを探り、この歌集に見られるものは、ただ「初恋の人の病を嘆き悲しみ,彼女に射す死の影に怯えるだけの少年」ではなく、
死後我は盲魚と化すにあるらむと友に語る日秋風の吹く
『西川徹郎青春歌集』
この我の鼻の穴より蜉蝣の二匹現はれ塚を飛ぶ見ゆ
等の作品に歌われる如く「死への先駆的覚悟」を思い定めた少年詩人の姿であるとする。短歌的抒情と訣別し、実存俳句へと一歩を踏み出した男の面構えを山を降り立ったツァラトゥストラに譬え、同論文は結ばれている。〈反定型の定型詩〉――定型の喉を食い破る
野家啓一、綾目広治両氏を受賞者として迎えた2019年9月14日の第四回西川徹郎記念文學館賞授賞式と新城峠大學に於ける受賞記念講演開催を終えた翌9月15日、夕刻の便で帰路に就く両氏を、西川徹郎・斎藤冬海が千歳空港まで送った。その道すがら、西川文学ゆかりの地を案内した。旭川市中心部に建つ文學館から車で約40分で新城峠に到着するが、途中に旭川随一の景勝地、神居古潭(カムイコタン)がある。
神居古潭はアイヌ語の「神の住む場所」という名の通り、アイヌの人々にとってのポロト湖畔、阿寒湖湖畔、日高沙流川河畔の二風谷と並ぶ北海道の四大聖地の一つとして知られ、石狩川河畔にアイヌの人々の多数の集落があった場所である。少年時代に西川徹郎がバスで旭川に向かうと、車窓から幾つものチセ(アイヌの人々の家屋)を見る事が出来たという。ここは古来舟を操って移動するアイヌの人々にさえ大難所と呼ばれてきた急流で、最深部の水深は70メートルに及ぶという。激流が岸辺をえぐり、湾状になった地形は独特で、川は広々とした水面に大小幾つもの渦を巻きながら流れ下る。北海道を南北に分断する構造帯がこの地を縦断しており、神居古潭構造帯(変成岩帯)と呼ばれる。地質学上、世界的にも貴重な場所として、2007年「神居古潭渓谷の変成岩」が日本の地質百選に選ばれている。
少年期の西川徹郎は、自転車を駆って新城峠を越え、神居古潭の両岸を結ぶ吊り橋、神居大橋を渡り、岸辺の緑の草原を散策して多数の詩歌を作った。
この朝、西川徹郎は前夜受賞式を終えた野家、綾目両氏を案内しつつ、白い吊り橋を渡り始めた。筆者は、吊り橋の上の詩人と哲学者と文芸評論家を撮影するべく、橋のたもとでカメラを構えていた。
その時目の前に不意に黒い影が過ぎり、天空に飛び去るものを見た。見たこともないような大鴉だった。一片の布切れ状のものを嘴に咥えていた。筆者は思わずシャッターを切り、モニターを見た。そこに確かに黒い炎が燃え立つかのように空を蹴る一羽の鳥が写っていた。何かを咥え、詩人たちの頭上を飛び去った鳥の姿を拡大して見てみようと思ったのは随分、後のことだ。そこには秋の晴れた空を引き裂く黒い鳥の姿が写っていた。橋の上には案内する西川と前後して綾目広治、野家啓一両氏の後ろ姿があった。画面を拡大して驚いたのである。その黒い鳥は鴉だった。嘴の尖端のものは布切れではなく、恐怖に戦き、目玉を剥き出しに空中を運ばれていく生き物だった。その生き物とは蛙だ。
後日筆者は、西川徹郎にカメラのモニター越しにその写真を見せた。
「三人で歩いたあののどかな朝の時間に、天空では惨劇が起こっていたんだ」と筆者が言うと、すかさず西川徹郎はこう応えた。
「生きるものとは、食われながらでも、たとえそれが牙や嘴の中でさえも、命尽きるその瞬間まで生きてゆかねばならんのだ」「この蛙は詩人としての西川徹郎だ。ただし、大鴉の喉元に自ら飛び込んだ、毒牙を持った蛙だ。鴉にただ食われるのじゃない。この毒蛙が大鴉の喉仏を食い破るのだ。定型を以て定型という国家の意思を食い破る、必死必敗の〈反定型の定型詩〉が私の十七文字の文学であり、〈異界の戦場〉なのだ」と西川徹郎は語った。(斎藤冬海 Saito Fuyumi)
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