留萌市増毛町大別苅の荒磯 撮影 西川徹郞
設立の趣旨と要綱
- 正式名称[西川徹郎記念文學館 極北の詩人西川徹郎学会]、
略称「西川徹郎学会」正式名称の由縁と趣旨 - [極北の詩人西川徹郞学会]設立の目的
- 学会と学術誌『西川徹郎研究』の関係について
- 会長及び名誉会長、参与等の諸役員の任命
- 文學館市民の会と極北の詩人西川徹郞学会との
会費その他の相互関係 - 学会の運営基金及び『西川徹郎研究』等の制作費・発送費等の必要経費
- [極北の詩人西川徹郎学会]は、令和6(2024)年秋、10月10日より発動予定。
- この後、作家・エッセイスト西川徹郎による小笠原賢二著『極北の詩精神─西川徹郎論』伴載の「小笠原賢二覚書」を西川徹郎のエッセイと作品を混え、幾回かに分け、西川徹郎公式サイト「極北の詩人西川徹郎学会」に於いて連載します。御期待下さい。
- 小笠原賢治著『極北の詩精神─西川徹郎論』(茜屋書店)は、最寄りの書店で御注文頂けます。
又は葉書かFAXで、〒075-0251 芦別市新城町宮下 茜屋書店FAX0124-26-2708まで御注文下さい。中に郵便振替用紙を入れ、送料無料でお届けします。
■留萌市増毛出身の高潔にして不世出の文芸評論家小笠原賢二(1946-2004)は、2004年『極北の詩精神 西川徹郎論』(茜屋書店)を刊行した。氏は同著で西川徹郎の「実存俳句」の本質を「芭蕉を凌ぐ宇宙的エネルギーのダイナミズム」と述べた。
■西川徹郞の文学を貫くこの「極北の詩精神」が西川徹郞の実存的「21世紀銀河系HAIKU詩観」を形成して来た。この学会の正式名称を[極北の詩人西川徹郞学会]とする縁由である。
■西川徹郞は1947年の9月、夕張芦別山系の最北の峠、新城峠の麓の町に建つ淨土真宗本願寺派の寺院法性山正信寺の住職西川證教・貞子の次男として出生した。
■十代の少年期に学校から帰ると草稿ノートを携え、砂利の坂道を自転車を漕いで、新城峠の頂に上るのが常だった。そこは大雪山系の峻峰の白銀の尾根が輝くパノラマの世界だった。少年の日の西川徹郎はその新城峠の絶景を仰ぎつつ詩や俳句・短歌といった詩歌を沢山作った。やがて大雪山系の遥か彼方にランボーやボードレール等の遥遠なる世界の詩人や世界の文学者を憧憬しつつ自らも〈世界詩としての俳句〉や〈十七文字の銀河系〉〈十七文字の世界藝術〉への詩志を私(ひそか)に抱くようになった。
■西川徹郎が提唱する〈実存俳句〉である「21世紀銀河系HAIKU詩観」に拠って制作された「HAIKU」作品を[21世紀銀河系HAIKU詩篇]と呼称し、その言語藝術としての意義、更には西川徹郞の詩歌の全作品、及びエッセイ・評論・真宗学の論文等をも含め、西川徹郞の表現としての言語が性起する詩と思想と哲学の本源、その根柢の探究を推進すると共に日本及び東洋の代表的HAIKU詩人 西川徹郞研究の精華を世界の詩歌界及び文学界へ発信し、日本の詩歌文学と思想・哲学の世界的振興を目指す事を以て[極北の詩人西川徹郞学会]設立の目的とする。
■通常、学会は年度の大会等を開催し、その会場で講師の講演や研究者や会員の口述に由る研究発表及び質疑応答等が行われるが、旭川市はわが国の最北の都市であり、年度毎の大会の開催は主催者及び会員共に困難を伴うと考えられます。故に研究発表は、現在、当館の学術誌として第Ⅲ集まで発行してきた『西川徹郎研究』の誌上で行うものとします。即ち同誌第Ⅳ集以降の誌上を「極北の詩人西川徹郎学会」の〈研究発表のステージ〉とする。
■西川徹郞学会の事務局を西川徹郎記念文學館内に置き、事務局長を館長・學藝員の斎藤冬海がその任に就く。
■編集発行の業務は事務局及び茜屋書店編集室が行うが、出版は道外の実力ある出版社に委託する。
■会長及び名誉会長、参与等の諸役員は先行する寺山修司学会、石川啄木学会等の例に倣い、西川徹郞文学に関連した学術研究者・作家・詩人等の著作者の中から実績を有し、西川文学への研究意欲を示す者の中から西川徹郞記念文學館[極北の詩人西川徹郞学会]の設立共同代表発起人である同館館主西川徹郞(本名西川徹真)と同館館長・學藝員斎藤冬海(本名西川裕美子)の二人の推挙を受けた者がその任に就く。
■役員の任命は本学会が正式発動する令和6年10月10日迄に決定致します。
■「西川徹郎記念文學館詩と表現者と市民の会」会員は、同時に[極北の詩人西川徹郎学会]の会員を兼ねる。又「市民の会会費」は
[極北の詩人西川徹郎学会]の会費を兼ねる。会費は1年間2,000円(以上は随意)と致します。
学会の年間会費(上記)及び西川徹郎(西川徹真)の私財を以て充当する。
〒070-0037 旭川市7条通8丁目緑道(旭川市総合庁舎正面)
西川徹郎記念文學館 極北の詩人西川徹郞学会 事務局長 斎藤冬海
小笠原賢二覚書
西川徹郎
西川徹郞記念文學館
[極北の詩人西川徹郞学会]発足記念
小笠原賢二 著
『極北の詩精神─西川徹郞論』より
(2004年茜屋書店刊)
〈其のI〉
文藝評論家小笠原賢二、
この一人の不世出の文学者の肩越しにいつも極北の紺青の海がうねっている。
留萌市増毛町出身の文学者小笠原賢二氏の著書『極北の詩精神─西川徹郞論』に伴載する「小笠原賢二覚書」の執筆を私は、小笠原氏自身から依頼されたのである。
西川徹郞記念文學館[極北の詩人西川徹郞学会]という正式名称は、高潔にして不世出の文芸評論家小笠原賢二氏の最後の著書であるこの『極北の詩精神─西川徹郞論』の〈極北の詩精神〉という題名に拠って名付けた会名である。
西川徹郞は、北海道は夕張芦別山系の北端の新城峠の麓の町に唯一人在って、季語季題の観念に呪縛され、趣味化し娯楽化した日本の伝統的定型詩俳句の言語芸術としての再生と復権を目指すべく〈十七文字の銀河系〉〈十七文字の世界藝術〉を唱導し現在に到った。
小笠原賢二氏は2004年10月倒れる迄、詩人として孤立しがちな西川徹郞の前線的で前衛的な活動を自らの全力を挺して支えた。
西川徹郞は小笠原賢二氏のこの高潔にして孤高の文学者精神を貴び、恐らくは日本の詩歌の文学史上に於て、初となるこの[西川徹郞学会]発足に際して学会の名称を[極北の詩人西川徹郞学会]と命名したのである。
[極北の詩人西川徹郞学会]は今秋10月、正式に発足します。
これを記念し小笠原賢二著『極北の詩精神─西川徹郞論』に伴載された西川徹郞執筆の「小笠原賢二覚書」を数回に分け、読者が読み易くする為に、西川徹郞自身に依る解説とエッセイ或いは詩歌作品を添えつつ「西川徹郞公式サイト」のブログ[極北の詩人西川徹郞学会]に於て連載を行って参ります。
インターネット又はスマホでご検索の上、御高覧下さい。
〈其のII〉
最初に会ったのは、2002年4月20日札幌市で開催された前衛短歌評論の第一人者である北海学園大学教授菱川善夫氏が発起人を務めて開催された弟子格の歌人田中綾氏の出版記念会の夜のことであった。
小笠原氏はその夜の記念会の主賓として招かれ、田中綾氏との公開対談を行う為に来道したのだった。
祝賀の宴が終わって、二次会の席へ移動する大通公園からススキノまでの間、小笠原氏と私は、北の都札幌の澄み切った夜の青空を時折仰ぎながら、今日の短歌や俳句の悲惨な現状を話題に肩を並べて歩いた。
所々に常夜灯が点る大通公園の、例年になく早い桜木の蕾が夜目に蒼白に浮かんで見えた。
その夜はやがて三次会へと進み、菱川善夫氏を交えて夜明け近くまで、小笠原氏と私は酒を酌み、何時になく熱っぽく文学を語った。
二度目は東京都日野市の小笠原氏の邸宅へ私が訪問した折りである。
去年(2003年)の11月下旬のことである。
氏が重病を患って自宅療養中であると知り、滋賀県米原町磯の古刹、淨土真宗本願寺派の上妙寺での報恩講の布教使として三日二夜十三席の法話を終えた私は、帰路、新幹線で米原駅から東京へ出て、小笠原氏を見舞ったのである。
氏はその時、私の「実存俳句」について、松尾芭蕉や正岡子規を引き合いに出して、確かにこう論評した。
「正岡子規は、俳句を文芸として捉え、藝術的なものにしようとする志があったが、しかし子規は必ずしも芭蕉の本質的な部分を継承したわけではない。
芭蕉の俳諧の本質にあるものは、宇宙的なエネルギーではないか。あなた(西川徹郞)の実存俳句には、宇宙的なダイナミズムがマグマのようにうねつている。
西川文学は芭蕉の宇宙観を更にマクロにして、芭蕉をも凌ぐものだ。」、と。
私はこの時、込み上げてきた涙が零れそうになって、思わず窓の外の庭木の冬陽の当たる紅葉へ眼を遣った。
私が小笠原邸に居たのは三、四十分の短い一時であった。しかし、私は、私と同じように独力で自らを築き上げてきた小笠原賢二というこの一人の文学者が、今日まで気の遠くなるほどに永い時間を蓄積し培ってきた〈批評文学〉の、聳え立つ絶頂を仰ぐ思いで、私はじっと、この文学者の言葉に耳を傾けていたのである。
氏は最寄りの駅まで私を送ってくれると言う。暫く歩くと丘に沿った小径から高幡不動の森がうっすらと霞んで見えた。
その森に沿ったなだらかな道を駅へ向かって二人で歩いた。
「文学は永遠です、共に頑張りましょう。」
駅近くなって、私はそう氏へ力を籠めて言った。
〈其のⅢ〉
三度目は、今年(2004年)五月下旬、氏の再入院を知って東京都立川市の立川共済病院へ見舞いに上ってのことである。
小笠原氏の症状の重体化を知って、居ても立っても居れず、その日、早朝の内に自家用車で門徒の数軒の家を廻って住職としての法務を終えた私は、芦別より千歳まで凡そ200㎞近い国道を休まず自家用車を走らせ、午後の千歳空港発羽田空港行便に搭乗したのだった。
その結果、都内の幾筋かの地下鉄や鉄道を乗り継ぎ、タクシーで小笠原氏が入院する立川市の立川共済病院に着いたのは既に夜の八時近い時刻だった。
重症化し病床に就いた小笠原氏を見舞うと共に、私には、これまでに氏が全国の各紙誌へ発表して来た西川文学についての論考や発言を一冊の『西川徹郞論』として纏め、かつその本を茜屋書店から出版する事を了承して貰いたいという願いがあった。
岩手県北上市に建つ日本現代詩歌文學館の本年度常設展に石川啄木や北原白秋等の作品と一緒に私の第13句集『銀河小學校』(2003年沖積舎)の作品やエッセイが展示されることが決まった同展の記念図録を持参した私に、
「西川文学は詩精神を極限まで追究するものだ。」
と、氏は病床に横臥した儘、はっきりとした口調で私へそう語った。
「小笠原先生の批評がどれだけ私を勇気づけたか知れない」と私は応え、氏は更に
「私はいつも孤立した表現者の為に書いてきたのです」
と語った。
「(二人の出身が)北海道だから書いたのではない」
とも言った。
私が病床の氏と面接出来たのは、ほんの十分ばかりのことだったが、氏がはっきりとした口調で語った
「西川文学は詩精神を極限まで追究するものだ。」
という言葉が、病院の夜間用玄関から長い廊下を駆け気味に来て未だ動悸の治まらない私の胸に、突然飛来した白羽のように衝き刺さった。
「ああ、この人は何という凄い文学者なのだ。重い病に冒され床に横臥しその病気と闘いながら同時に激しく今も文学との闘いを持続しているのだ。」
氏の私に対する強い激励の言葉を聞きながら、私は、興奮気味にそう思った。
氏は本書収載の西川論の外にも、『現代詩手帖』(思潮社)などの総合誌や「東京新聞」「中日新聞」などの多数の新聞のコラム欄等で私の俳句文学とその活動を伝える
論評や紹介を続けていたのである。
〈其のⅣ〉
『極北の詩精神─西川徹郞論』に収載され、本書の書名ともなった小笠原賢二氏の評論「極北の詩精神─幻視者・西川徹郞が見出した世界」は、『西川徹郞全句集』(2000年沖積舎)の刊行記念論叢として編纂された『星月の惨劇―西川徹郞の世界』(2002年茜屋書店)の為に書き下ろした評論であった。
氏はこの評論の中で、私の文学が松尾芭蕉・石川啄木・宮沢賢治・吉田一穂・安西冬衛・埴谷雄高等、日本の代表的詩歌や文学と呼応することを検証し、中でも特に宮沢賢治の世界観や宇宙観と密接に響き合うことを、私の初期詩篇「月夜」と宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」との詳細な比較論によって検証している。
宮沢賢治については、私は1984年創刊した個人編集誌「銀河系つうしん」の第一号の編集後記で、『春と修羅』第一集の冒頭の詩を引用し、次のように書いた。
「父よ、あるいは、私は、書く行為の持続の中で、どこかで、既に不在者でしかないあなたに、なされるはずのないふたたびの出会いを成し遂げようと必死になってきたのであったのかもしれない。
もし仮にそうであったとすれば、小誌「銀河系つうしん」は、〈不在〉の読者へこそ向けて発信し続けられてゆく霊性の便りなのだと言ってよいはずである。
そのとき、それは例えば、銀河系の彼方から不断に私たちの〈生〉に向けて送り届られてくる宇宙の淡い光りにも似て、言語表現の〈現場〉を青白く照らし出すはずである。このように考える時、〈わたしという現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です〉という賢治のことばが、哀しい傷みをともなって、私の全身に染みわたってくるのがわかる。
なにはともあれ、私はこの傷みと苦しみの中から、力あるかぎり、小誌「銀河系つうしん」を発信して続けてゆこうと思う。」 と。
『春と修羅』は妹トシへ寄せた宮沢賢治の絶唱である。
『春と修羅』を私は、芦別高校在籍中の十代の日にほぼ暗誦するほどに繰り返し読んだ。
私の十代から二十代の青少年期の季節に戦ぎ波打つ詩人をもし三人挙げれば、その一人が宮沢賢治であり、後の二人は石川啄木と萩原朔太郎であった。
小笠原賢二氏は、私の「実存俳句」について、吉田一穂の詩「鷲」を引用した上で、次のような見事な認識を示している。
「一穂の「鷲」という詩の「夢魔」や「刹那の血の充実感」「時空一如」や「黄金の死」は、なんと西川の幻想領域を彷彿とさせることだろうか。
「現身(うつしみ)を破って、鷲は内より放たれたり。」という一行も面白い。
この「現身」を西川流に言い換えれば、「実存」である。
現実存在、事実存在の短縮形である実存とは、有限な人間の主体的存在形態を意味する。詩や文学とはつまり、この有限の「実存」から一羽の想像力の「鷲」を放つことである。」
「現身」という言葉は、元、中国唐代の淨土教の高僧善導が『観無量寿経疏』「散善義」に於いて、「決定して自身は現に是、罪悪生死の凡夫、廣劫よりこのかた常に没し常に流転して出離之縁有ること無しと信知す」という所謂「機の深信」と呼ばれる文中に出現する言辞であり、人間存在についての善導の基本的な認識を示している。
私も「不在の彼方へ―わが芭蕉論」や「〈火宅〉のパラドックス―実存俳句の根拠」等、幾篇かの論考で引用し、親鸞聖人の『正像末和讃』等と共に佛教の歴史上に顯現した実存的思想の典拠として論じてきた。
此処には東洋思想に於ける実存的な存在論が明確に顕現しているのである。
小笠原氏のいう
「詩や文学とはつまり、この有限の実存から一羽の想像力の「鷲」を放つことである。」
とは、誠に的確な詩や文学についての認識であり、同時に私の「実存俳句」への見事な解説ともなっている。
氏は又、私の俳句について次のような認識を明らかにしている。
「西川徹郎の俳句を特徴づける著しい傾向は、超現実的な幻想的想像力である。このことは第一句集『無灯艦隊』にすでに明らかだ。
「遠近法の解体、自在な変身と生命観、レントゲン的な透視力、が西川の幻想的想像力の特徴と言えよう。」
「西川にとって俳句は詩作であり、文学的行為であり、その極限にまで至らんとする行為である。」
「西川徹郎が、現代俳句では類例のない営為によって、かつてない視野を開きつつあることは確かである。」
「これは、俳句を文学として位置づけた正岡子規の主張といささかも矛盾していない。」
北海道は空知の新城峠に唯一人在住し、で趣味化し娯楽化した日本の伝統的定型詩俳句の俳句革命を宣言し、反季・反定型・反結社主義を標榜しつつ〈実存俳句〉を標榜し〈人間存在〉と〈生〉の全体性を主題とする〈世界文学〉としての俳句を書き続け、〈十七文字の世界藝術としての俳句〉の樹立を目差して、阿修羅の闘いを為し続けてきた私の俳句文学四十年(註・本稿執筆時点)の営みを、あくまでも真正面から捉え、文学論として的確に論じ評したのが、小笠原氏の渾身の作家論「極北の詩精神―幻視者
・西川徹郎が見出した世界」なのである
〈其のⅤ〉
小笠原賢二氏の評論は須(すべから)く、文学を人間のもっとも本質的問題として捉え、時代と生存の根拠を文学作品の根柢に見届けようとする極めて勝れた思想的哲学的営為に外ならない。
ところで小笠原氏のこの論文は、私の第一句集『無灯艦隊』(1974年粒発行所)の作品の引用から始まっている。
『無灯艦隊』は私が道立芦別高校に入学して俳句を本格的に始めた1963年より1972年までの、私の十代中期より二十代前期の凡そ十年間の数万句に及ぶ大量の俳句作品の中から厳選し収載したものである。
『無灯艦隊』という題名にふれて私は、後年刊行された『定本無灯艦隊』(1987年冬青社)の「後記」でこう書いている。註①
「昭和三十八年、想えば、それは、私が十五歳の少年の日の出来事であったが、新興俳句の旗手と称ばれていた俳人細谷源二よりの私宛の一通の便りを手にして以来、私は、来る日も来る日も無心に俳句を書き続けて、自身の飢渇の心と真正面から戦うような、薄暗く繁った青春の日々を送ったのだった。
本書は、そのような私の遠い日の、若く貧しい未完の作品を未完のままに収録するものだが、何よりも、私は、今、青春の日の私が、激しく波打つ暗夜の葛藤の果てに、遂に〈無灯艦隊〉と命名せずにはおれなかったなにものかへこそ言い知れぬ思いをめぐらせているのである。」
『無灯艦隊』の作品を書き続けていた時期は、私にとってまさに言葉通り「激しく波打つ暗夜の葛藤」の日々であった。
私は二十歳を過ぎた頃からよく日本海の増毛の海を自家用車を駆って見に行った。
孤独に苛まれ、居ても立ってもおれぬ焦燥が、私をあの荒波立つ増毛の海へ駆り立てたのである。
多くは、父母に知られぬように未明の出立だった。新城峠を越え、深川市に出て、留萌市までの凡そ百キロの深夜の国道を猛スピードで車を走らせ、留萌の市街を抜けて海岸道路を増毛町へと南下した。
増毛の海に着いてしばらくすると、漆黒の闇が破れ、沖から夜が徐々に白み始めるのが常であった。
夜闇が破れる直前に先ず鷗が一羽、闇の中でかん高くキャーと叫ぶのをいつも私は聞いた。初めは決まって一羽なのだが、それに従って忽ち無数の鷗たちが一斉にギャアギャアと鳴き始めるのである。
私はその鷗たちの喚声の中で少しずつ沖が白み、やがて太陽が昇る様を増毛の浜に佇んで見ていたのである。
なぜ、それが、留萌の増毛の海であったのかと言えば、増毛の海は、日本海の留萌地区の海浜の中でも黄金岬や浜中海岸と異なり、増毛崎から南の雄冬岬にかけては潮流が一層速くなり、少しの風でも波が俄にうねり出す。
増毛の町並から少し南へ下った大別苅の人里離れた荒磯が私の一番好きな場所だったからである。
私はその荒磯に草稿ノートを手にして佇ち、あるいは打ち上げられた破舟に横臥して夕方近くまで、俳句を書き続けていたのだった。
〈其のⅥ〉
〈無灯艦隊〉、それは私の青少年期の孤独の夜の海底から浮上し、激しく航行し続けていた、青春のある何ものかに対する必然の呼称だったのである。(註①)
留萌の黄金岬から増毛崎や大別苅、雄冬岬に掛けての日本海沿いの海流がインドの「マドラス」、スコットランドの「ウイック」と並ぶ世界の三大波濤と呼ばれる海流であることを知ったのは、ずいぶん後年のことである。(註②)
註①この時期の私の創作ノートには数万に及ぶ未完の創作の草稿が記録されている。その中から未収録作品を蒐集し、2000年沖積舎刊行の『西川徹郎全句集』に未刊句集『東雲抄』として2007句が収録されている。
註②「留萌風土資産カード」の「留萌の波濤」と題した留萌開発建設部のデーターによると、過去最大の波濤は、大正9(1920)年10月8日に観測されたもので、最大波高7.6メートル、最大波長106メートル、最大風速毎秒50メートルを記録したと謂われる。
私はいつの日か、偶々、小笠原賢二氏の生地が北海道増毛郡増毛町であったことを知り、氏へ私信をしたため、その中で「小笠原先生の生地は増毛だったのですね。私が人生で一番苦しかった若く遠い日に、私は増毛の海を見て俳句を書き、自心を励ましていたのでした。」と、述べたことがある。
私は氏の数々の評論やエッセイを読み、何よりも氏の文学精神の潔癖さとその志の高さに撃たれたのだった。
日本の近・現代の歴史に於いて不世出の文学者小笠原賢二氏の遠い少年の日の瞳にも、あの極北の増毛の荒波立つ潮の紺青が映っていたことであろう。
その後の氏の文学者精神の根柢にうねり続けていたものの正体こそ、あの極北の紺青の潮だったことを知ったその日、氏は私の文学の永遠の伴侶となったのである。
茜屋書店からの刊行を承諾して貰った本書の書名を、立川共済病院の夜の床に横臥した氏に訊ねる私に、氏は即座に
「「極北の詩精神」がいい。」
と答えた。
その書名を聞いて思わず胸奥から熱いものが込み上げてきた私は、不覚にもその時、言おうとした言葉を呑んでしまった。
「小笠原先生!
その《極北の詩精神》とは、
それは、先生ご自身のことですよ!」
私はその時、この高潔にして孤高の文学者小笠原賢二氏に、そう語りかけようとしたのであった。
[参考資料]
小笠原氏が私の実存俳句について論述した「芭蕉をも凌ぐ宇宙的なダイナミズム」とは、もし例句を挙げれば、下記のような作品を指すものと考えられる。
西川徹郞
父よ馬よ月に睫毛が生えている
尼の頭蓋に星が映っているは秋
月夜轢死者ひたひた蝶が降っている
星を盛る皿水陸両棲する僕ら
鶴の愁いの妹たちと月の出待つ
磯月夜姉妹が眉を剃っている
黒い峠ありわが花嫁は剃刀咥え
馬の瞳の中の遠火事を消しに行く
ひそかに皿は配られてゆく月の館
海女が沖より引きずり上げる無灯艦隊
無数の蝶に食べられている渚町
『決定版無灯艦隊─十代作品集』(2007年 沖積舎)
眠れぬから隣家の馬をなぐりに行く
父はなみだのらんぷの船でながれている
火の雨が降る旅立ち父を背に縛り
螢が秋の雪のように降る裸船上
蝶降りしきるステンドグラスの隣家恐し
『瞳孔祭』(1980年 南方社)
銀河ごうごうと水牛の脳の髄
倒れている自転車月の家のおおかみ
眠れははよききょうは銀河系の脳髄
『家族の肖像』(2007年沖積舎)
死髪靡カセ月ノ峠ノ小學校へ
秋ノクレタスケテクレト書イテアル
月夜ノ手紙タスケテクレト書イテアル
『天女と修羅』(1997年沖積舎)
筆入の中の銀河が青過ぎて
銀河を咥えた白百合と会う峠町
玄関先に銀河の青衣が脱いである
玄関先に蓮の青衣が捨ててある
白壁に銀河系の翼を書き写す
案山子の耳に銀河が懸かる山畑
苧環のような銀河が庭に生え
青蓮と銀河たたかう校舎裏
荒れ狂う銀河を校舎の裏で見る
月光の渦は月夜の独楽廻し
月光の柱は月夜の人廻し
少年よ夜風に火傷の頬晒し
遠野の駅でうねる銀河を仰ぎつつ
遠野駅津浪のように銀河荒れ
鬼房を遠野の駅で待ち詫びる
井戸に落ちた弟と仰ぐ天の川
うなる銀河を峠の寺で見てしまう
鏡屋を逃げ出す銀河が眩しくて
押入に潜り込む銀河が眩しくて
峪寺の厠で跨ぐ天の川
峠まで渦巻銀河に跨がって
一枚の葉に泊まる秋津のふりをして
夕べより秋草は血を吐き続け
自転車よシャツは秋草の血に染まり
峠では鋸で首斬る銀河系
褌一枚で銀河が路地に立っている
鋸で首斬るあなたこなたの星の屑
血の駱駝忽ち沙上の華となる
棺の底を銀河が流れていて眠れない
白鹿を追いつつ渉る銀河の渚
小学校の階段銀河が瀧のよう
廊下に映る銀河夜まで佇たされて
山のあなたの銀河が湖の底に在る
北枕初夜を銀河が身を反らす
北枕で見た夢をノートに書き切れず
初夜故に枕を北に 鶴の舞
十七文字で遺書書くすぐに死ねぬゆえに
校門に銀河が懸かる青まむし
銀河が細過ぎて死衣の帯に出来ない
『銀河小學校』(2003年沖積舎)
■西川徹郞公式サイト→極北の詩人西川徹郞学会─新城峠大学─銀河系通信ブログ版─西川徹郞ウィキペディアなどを御検索のうえ御高覧下さい。
■西川徹郞の本は、西川徹郞公式サイトの〈書籍案内〉で御参照下さい。御購入の方には西川徹郞の署名本をお届けします。
■小笠原賢二著『極北の詩精神─西川徹郞論』
(2,300円)や西川徹郞の著作や茜屋書店発行の先生方の書籍も発売しています。
■茜屋書店へ直接、葉書かFAXでお申込みの方は、送料・小社負担でお届けします。
●着本後、同封の郵便振替用紙で御送金下さい。