自1947(昭和22)年 至2018(平成30)年
西川徹郎記念文學館篇
実存とは、私の心の港の折れてしまった帆柱である。風来たりなば、魂の聲を出だす。西川徹郎
『風の言葉─西川徹郎語録集』(未刊)
■1947(昭和22)年9月29日
◆東雲頃、北海道芦別市の新城峠の麓の町新城に建つ浄土真宗本願寺派法性山正信寺の住職西川證教・貞子の次男として生れる◆1963(昭和38)年北海道立芦別高校入学◆1966(昭和41)年龍谷大学入学、1968(昭和43)年同大学自主退学◆現代俳句作家・歌人・作家・エッセイスト・文藝評論家・真宗学者◆2014(平成26)年第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(茜屋書店)で第七回日本一行詩大賞特別賞受賞◆日本文藝家協会会員・日本近代文学館会員◆〈実存俳句〉創始者◆〈17文字の世界藝術〉提唱者◆発表数二万一千句、日本文学史上最多発表作家◆西川徹郎記念文學館対象作家◆新城峠大學創立者、同代表◆西川徹郎記念文學館 詩と表現者と市民の会代表◆西川徹郎記念文學館賞選考委員◆浄土真宗本願寺派輔教・布教使◆浄土真宗本願寺派法性山正信寺代表役員、同寺第三世住職◆黎明學舎代表◆教行信証研究会専任講師◆現住所〒075-0251北海道芦別市新城町248番地
■吉本隆明がかつて〈天才詩人〉と称び〈俳句の詩人〉と称んだ現代俳句作家・歌人・エッセイスト・作家・文芸評論家・真宗学者・龍谷教学会議会員・黎明學舎創立者で日本文藝家協会会員でもある西川徹郎=西川徹真は、松尾芭蕉の辞世「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句に伏蔵する無季・破調・非定型の実存的口語表現や寺山修司の青森高校10代の日の〈俳句革命〉の遺志を継承し〈世界文学としての俳句〉を樹立する〈17文字の世界藝術〉を提唱、日本の詩歌1千年の伝承的季語・季題の美意識の呪縛を打ち破り、季語・季題に非ず、人間と人生に向き合う生と死と性の〈存在の総体〉〈生の全体性〉を主題とする必然的な生存の哲学を貫く口語による独自の〈実存俳句〉を創始した◆それは明治の正岡子規や高浜虚子等の花鳥諷詠・客観写生等といった文語による伝承的俳句論や種田山頭火・尾崎放哉等の自由律俳句、戦前戦中の新興俳句や口語俳句、更には戦後の「海程」等の社会性俳句や前衛俳句、高柳重信等の多行書き俳句、感覚だけで詠まれた金子兜太等の無思想俳句、娯楽番組化した坪内稔典等の片言俳句や軽薄俳句等、明治・大正・昭和・平成の今日迄、正岡子規已来、150年に至らんとする近現代の俳句史の〈有季定型〉の趣味的俳句論や〈季語季題〉偏重の伝承的美意識で作られた俳句を否定し超絶した、作家森村誠一が松尾芭蕉の〈蕉句〉と比肩し〈凄句〉と命名した〈世界文学としての俳句〉の屹立へ向けた〈反定型の定型詩〉論の提唱と実践であり、それはまさに、〈17文字定型〉の胎内原理〈反俳句の俳句〉〈反俳句則俳句〉を顕彰し、日本の詩歌文学一千年の伝統と対峙する〈反伝統の伝統〉詩としての俳句革命の実践であり、西川徹郎が提唱する、世界文学・世界藝術の極限を切り拓く〈17文字の世界藝術〉の樹立に外ならない◆2001〈平成13〉年七月西川徹郎は国文学の学術誌「國文學─解釈と教材の研究」(學燈社)7月号に同社編集人の原稿依頼に応え、その理念と原理を鮮明にした論文「反俳句の視座─実存俳句を書く」を発表した。その衝撃は俳壇・現代俳句という1ジャンルを超え、他ジャンルの表現者へも全国的な反響をもたらした◆西川徹真は斎藤冬海との結婚を機に1989(平成元)年10月、親鸞教学の北の砦黎明學舎を創立し、本願寺派の学問僧として日夜暁迄、聖教の独学研鑽に邁進しつつ〈実存俳句〉即ち〈17文字の世界藝術〉を書き続けてきた◆斯くして西川徹郎の文学の原郷は、新城峠の遠大な大自然と共にあり、世界文學への遙遠なる出帆の志念は、極北のこの新城峠に於る生活の熾烈な現実に由り生起したのである。
■新城峠は大雪山系の尾根を遙かに望む夕張山地の峡谷の北端に聳え立つ峠である。西川徹郎はこの峠の麓の寒村の集落、新城の町外れの小高い丘に建つ浄土真宗本願寺派の法性山正信寺に生まれ育った。兄姉弟に兄徹麿(1943年―1999年)、姉暢子(1945年生)、弟徹寛(1949年生)が居る◆十代の頃、徹郎は学校から帰ると4、5キロもある砂利の坂道を自転車を漕いで峠の頂にのぼり、大雪山系の白銀の尾根を遠望しつつその絶景の中で多数の詩や俳句や短歌を作った。新城峠は、その頂を尾根として南北へ大地を分かつ分水嶺を形成し、その尾根から多数の河川が南北に流れ下っている。開村以来峠の麓の町新城は、大小の河川が網目のように流れる町として知られる。新城峠の裾野を遙かに南北に10キロほど離れて二つの大河、石狩川と空知川が悠然と流れている。新城峠から流れ下る河川のすべては、北へ向かえば石狩川随一の急流でアイヌ民族の聖地神居古潭へと流れ下る。その石狩川沿岸の道を更に北へ遡れば、西川文学の第二の故郷美しき山岳都市北都旭川がある。南へ向かえば、樹木に覆われた峡谷に沿いつつ錚々と流れるパンケホロナイ川となり、その谷間を流れる緑の水はやがて雄大な空知川へと流れ下る◆西川徹郎の文学は、喩えれば新城峠を頂として鬱蒼と茂った峡谷に沿いつつ流れゆく谷川の透き通った一条の水の流れとともに在り、極北の二つの大河、石狩川と空知川を攝めたその大自然の全体を原郷とする文学なのである◆1895(明治28)年来道した国木田独歩は空知太や赤平等の空知川の沿岸周辺を散策し、名作『空知川の岸辺』を書いた◆1903(明治36)年氷雪の空知川を渡り、雪積む道無き道を北上し岩石峠を越え、更に新城峠へと向った葛西善蔵は、その途上猛烈な吹雪に遭遇して死を覚悟した経験に基づく小説『雪をんな』(1917〈大正6〉年発表)を書いた◆1907(明治40)年郷里渋民村を捨て北海道へ渡った石川啄木は、釧路へ向かう汽車の窓から寂とした空知川沿岸の景色を「空知川雪に埋もれて何もみえず岸辺の林に人ひとり居き」(歌集『一握の砂』所収)と詠んだ◆徹郎の祖父正信寺開基住職西川證信(1888(明治21)年―1963(昭和38)年)は、本願寺派の勤式・声明の指導者として全国にその名を知られ、北海道開教期を代表する布教使だった。広大な北海道の本願寺派の寺院凡そ300カ寺を隈無く巡回する為に暁前に寺を出て14、5キロもある暁闇の雪積む道無き道を徒歩で新城峠や岩石峠を越えた。当時、鉄道の駅舎の在った芦別市街又は神居古潭へ出て早朝の鉄道に乗り、巡回布教した◆父證教(1914(大正3)―1975〈昭和50〉年)は、真宗学者月輪賢隆・梅原真隆の弟子として龍谷大学で真宗学を修め、当時道内に数名しかいなかった学階得業の修得者だった。少年期の徹郎へ親鸞聖人の主著で浄土真宗の根本聖典『教行信証』を最初に授けたのは父證教だった。
■1955(昭和30)年 7歳
◆7月頃、肺門リンパ腺炎を患い、凡そ4ヶ月休学して自宅療養した。寺の庫裡の裏庭に面した病床の襖や屏風に祖父證信が墨書した芭蕉や一茶の発句や『教行信証』等の聖句を諳誦しつつ過ごした。中学時代、祖父の書斎で見つけた啄木の『一握の砂』を鞄に入れて教室の窓明かりで読んでいた。又宮澤賢治や大手拓次・萩原朔太郎等の詩集を諳んじ、多数の俳句や短歌を作った。
■1963(昭和38)年16歳
◆4月24日正信寺開基住職西川證信は行年78で往生の素懐を遂げた◆4月徹郎は道立芦別高校に入学するや図書館部に入部して近現代の詩歌を読み漁った。筑摩書房版『現代日本文学全集』で北海道縁の新興俳句の旗手細谷源二の名作『砂金帯』の哀調を含んだ口語調の俳句を初めて知った◆徹郎もペンネームですすんで投稿した。「翠雨」の筆名は、石川啄木の函館時代の友人宮崎郁雨から名を採ったのである。「北海道新聞俳壇」紙上にその名が常時登場することを知った教師や同級生等からさかんに「スイウ」「スイウ」ともて囃された。徹郎はやがて細谷源二より届いた1通の書簡を得て、細谷の主宰誌「氷原帯」の会員(後に同人)となった◆芦別高校文芸部発行の文芸誌「シリンクス」に在学中3年間、短歌と俳句を多数発表し、「氷原帯」にも毎月続けて発表した。「北海道新聞俳壇」では細谷源二選の常連となり、「上半期」「下半期」秀作として細谷源二に続けて選出され、土岐錬太郎にも選出された◆徹郎は芦別高校へ通学する3年間、新城の町外れに建つ正信寺の参道口のバス停から岩石峠を越えて芦別市街地区迄、14、5キロの悪路を連日朝夕、通学バスで激しく揺られながらも、「創作ノート」を片手にバスの窓辺で鬱蒼と茂った峡谷の川沿いの景色を眺めながら沢山の作品を書き続けた。学校でも教室の片隅で夕刻迄、帰宅後は毎夜、暁近く迄、床の中でも詩歌を書き続けた。
■1964(昭和39)年17歳
◆2月「シリンクス」第22号に7句発表◆7月21日正信寺境内に聖徳太子堂があり、毎年、この日に御堂の前で村中の村民が集まり、上宮太子奉賛法要が勤修される。この年の余興にデビュー前の藤圭子親子一座が本堂で公演し、庫裡の一室で宿泊した。圭子の父親は浪曲を唸り、盲目の母親は屏風の陰で三味線を弾いた。圭子は浪曲が終わって最後に朗々と美空ひばりを唄った。翌40年と2年続けて徹郎は、デビュー前の哀愁漂う藤圭子とその親子一座の姿を間近に見ることとなった。後日徹郎はエッセイ集『無灯艦隊ノート』「太子祭」の章にこの日の事を詳しく書いた。
■1965(昭和40)年18歳
◆2月「シリンクス」第23号に17句、短歌七首を発表。8月「シリンクス」第24号に50句、短歌5首を発表◆10月高校3年時に「氷原帯」新人賞(風餐賞)受賞。俳句界へは徹郎は、10代の少年作家としてデビューを遂げたのである◆当時の「氷原帯」は東京から北海道へ渡った新興俳句の旗手細谷源二が発行する現代俳句の北の拠点として全国的な注目を浴びる俳誌だった。前衛的な十代作家の出現は、俳句界全体へ衝撃を与えた。◆10月31日札幌市で開催された「氷原帯」全国大会の受賞式会場へ詰襟の学生服姿で出席し、初めて新興俳句の旗手細谷源二と対峙。細谷源二から氷原帯新人賞の賞状と記念品を授与された◆来賓として臨席していた評論家中村還一や細谷源二の直弟子星野一郎や越澤和子等から盛んに〈天才詩人〉と賞讃された◆だが徹郎は当時、只17字の創作に明け暮れていた訳ではなかった。新城中学二年時に札幌から転校してきた一人の少女「桑野郁子」との出会いと辛い訣れが在った。彼女は札幌より新城中学校へ転入して来たのだが営林署勤務の父親の転勤によって1年足らずで芦別の隣町赤平市平岸へ移住し、更に芦別高校1年時に校舎で一瞬影を見るもののその後離れ離れとなった儘の初恋の少女だった。当時は「死の病」と謂われた脊椎カリエスを患う薄幸の少女をひたすら思う青春の短歌を徹郎は、幾千、幾万と書き連ねられた俳句の「創作ノート」の片隅に窃かに書き遺していたのである◆新城中学、芦別高校、京都の龍谷大学へ、新城峠より芦別、更に津軽海峡を越えて京の都へ、又京の都より降雪の新城峠への帰郷といった10代後半より20歳迄の激しく揺暗する苦悩の少年期に幻の如きその薄幸の少女を憶い、憧れつつ密かに詠み続けられていたのが西川徹郎の十代の日の青春短歌であり、それらの十代の日の短歌作品は、その後の徹郎の詩人・作家としての獅子奮迅の活躍や聖教を日夜独学研鑽する學燈の影にいつしか隠れ、経蔵の奥所に積み重ねられた「創作ノート」幾十冊かの片隅に鉛筆書きされた儘に半世紀の春秋が経過したのである。
■1966(昭和41)年19歳
◆1月同人誌「粒」(代表・山田緑光)に入会◆3月「シリンクス」第25号に俳句34句、短歌85首を発表◆4月宗門の大学龍谷大学へ進学◆4月金子兜太代表の同人誌「海程」◆赤尾兜子代表の同人誌「渦」に入会(何れも後に同人)した。5月大阪の「渦」句会に出席。前衛の旗手赤尾兜子と初めて相見えた。句会の席には後に早逝する中谷寛章の姿もあった◆6月「海程」大阪句会に出席。関西前衛派といわれる林田紀音夫・堀葦男・小山清峯等と初めて対面した◆7月龍谷大学深草学舎の学生寮で生活していたが、学生運動の荒廃した空気が未だ立ち籠める校内や世俗的な浅薄な話題しかない学生達との寮生活に馴染めず、東山や賀茂川沿いの道を連日散策し、短歌や俳句を書いて過ごした。夏休みに入る前に休学届けを出し、峠の寺へ帰った◆龍谷大学に在籍中、心疲れ揺れ動く徹郎を救ったのは、当時、真宗興正寺派の本山の宗務総長を務めていた千葉葆亮・定子夫妻だった。千葉葆亮は徹郎の実母貞子の姉笑子(笑子は北海道南幌町妙華寺開基住職神埜無学の長女で、栗山町の真宗興正寺派興宗寺住職千葉葆亮へ嫁いだ。徹郎の母貞子は無学の5女に当たる。笑子は昭和33年行年49で往生の素懐を遂げている)が前妻であり、葆亮とは伯父に当たる関係だったが、夫妻は実の父母の如く徹郎を励まし、京の都で独り彷徨を続けていた徹郎の心を救った◆10月総合誌「俳句研究」10月号「俳句研究誌上競合句会(萩原洋燈選)」の特選巻頭に
海峡がてのひらに充ち髪梳く青年
が掲載される。選者萩原洋燈は「いままで目の前にあった受験期という海峡が、だんだん掌をはなれてひろびろとした海原になっていく。ペンもつ手に櫂をにぎれば意外な力が湧いてとても乗り切れそうもないと思っていた海洋も乗りきり、希望の島へたどりつくことができた。潮風で光りとぶ髪に希望の櫛をあてるとき、新しい頁がひろがりだし希望をはこぶ波が青年のまわりをいっぱいにとりまく」と評した◆この年の初秋、日本海に近い昭和町で開催された「氷原帯」全国俳句大会に参加した。深川市から国鉄留萌線の鉄道に乗車したが、偶然、札幌から乗車した細谷源二の一行と乗り合わせ、細谷源二と向かい合わせとなる。細谷の傍には細谷の直弟子星野一郎や越澤和子等数名が一緒だった◆この時の印象を徹郎は後年「銀河系つうしん」第4号(1985(昭和60)年9月)掲載の細谷源二論「細谷源二の俳句、あるいは地方性という命題」の冒頭で記述している◆越澤和子は後に細谷源二の評伝『炎の海』を刊行。又越澤和子は1988(昭和63)年西川徹郎初の読本『西川徹郎の世界』(『秋桜COSMOS別冊』、秋桜発行所)を独力で発行◆2007(平成19)年の旭川市緑道の西川徹郎文學館建立と開館に至る迄生涯細谷源二の直弟として西川徹郎の文学を支えた。
■1967(昭和42)年20歳
◆4月龍谷大学に復学◆5月総合誌「俳句研究」の第一回俳句研究誌上競合句会賞(年間最優秀賞、選考人萩原洋燈)を受賞。「俳句研究」5月号に受賞作品が掲載される◆5月「海程」尼崎句会に出席し、赤尾兜子と共に関西前衛派の旗手と呼ばれる島津亮と初めて対面した◆9月龍谷大学での学生生活に馴染めず、名月の夜、本山西本願寺の正門の柳並木が影を落とす堀川通りの沿道を幾時間も逍遙し、遂に西本願寺正門前で蹲り、御開山様に合掌し涙を流して自主退学を決意した。徹郎は同大学をひとまず退学した後、体勢を整え新たに他大学への進学を思索したのだった◆10月下旬京都・油小路の下宿を畳んで、新城峠の生家正信寺へ戻るが、正信寺では庫裡の改修事業の真っ最中だった。父證教は改修中の庫裡の一番奥の部屋の病床に横臥していた。すっかり剥き出しになった庫裡の裏庭には、前夜この年初めての雪が積もり、庭全体が既に雪景色となっていた◆その年の冬から徹郎は僧侶の資格を持たぬ儘父の法衣を身に纏って、新雪に覆われた峠に点在する門徒の家々を徒歩で廻って読経した◆急に吹雪に襲われその儘夜を迎えたことがあった。やがて月が出て無事に寺へ戻ることが出来たが、徹郎はその時の恐怖を幾度か筆者に語った◆翌年からは近隣の寺院の報恩講や法要等の行事にも作法や声明も分からぬ儘に出勤し、近隣の寺院の住職や僧侶から矢のような白眼視を受けた。後年徹郎は「私が青年期で一番辛かったのは他寺院の法要や報恩講に作法も声明も知らぬ儘に出勤しなければならなかったことだった」と当時をふり返って語った◆10月第五回「海程」新人賞受賞。当時、同人誌「海程」は、総合誌やマスコミを何かと賑わす俳人金子兜太が代表を務め、全国的な前衛俳句運動の中核を担う推進誌だった。選考委員の一人中村還一は
蝙蝠傘がふる妙に明るい村の尖塔 (『無灯艦隊』所収)
等の超現実的で幻想的な徹郎の句を「イリュージョン俳句」と名付けて絶賛した。「海程」10月号に受賞作品と肖像写真が掲載された◆この年北条民雄の『いのちの初夜』を読んでいたく感動。「文学とは何か」という問いに対する答えが此所に在ると徹郎はその時思った。
■1968(昭和43)年21歳
◆3月龍谷大学へ退学届を提出した◆この頃、俳句と短歌ばかりではなく、現代詩や小説を模索しつつ書き始めていた。詩は「尼寺」「蛙」「鴉」「月夜」等、多数「創作ノート」に書き付けた。小説は芥川龍之介に魅せられ、短編に幾度か挑んだが、その都度、完成を見ぬままに原稿用紙を破棄する状態だった◆7月龍谷大学自主退学後、失意と彷徨の日々を送っていたが、某日札幌市の書店で『吉本隆明 初期ノート』(試行発行所/発行人・川上春雄)を入手、大通公園の青草の上で読んだ。吉本隆明の若き日の宮澤賢治論等の清冽な詩と思索の言葉に感動、「俳句の詩人」として生きることを決意した◆8月講演旅行の為に来道来砂した金子兜太・作家原田康子と砂川市民会館の講師控室で会う。金子兜太は徹郎に「尼寺百句」の書き下ろしを勧めた。
■1969(昭和44)年22歳
◆6月「海程」6月号に書き下ろし「尼寺93句」を発表。当時「海程」は表現に関わる作家・表現者等の全国的な注視の中に在った。その「海程」史上或いは戦後俳句史上前例の無い、前衛的な書き下ろしの大作「93句」を発表した西川徹郎への〈驚異〉の眼が全国から集中した◆様々な作家や読者から書簡や書誌が送られてきたが、坪内稔典から1通の封書が届いた。「尼寺93句」に対する驚きの感想と同人誌「日時計」への寄稿の要請だった。
■1972(昭和47)年25歳
◆6月5日祖母西川ヒサ、行年78で往生の素懐を遂げる◆9月坪内稔典・大本義幸・攝津幸彦・伊丹啓子等の同人誌「日時計」に新作「20句」が掲載された。
■1974(昭和49)年27歳
◆3月20日第1句集『無灯艦隊』出版。『無灯艦隊』は病床に就いていた父證教が、寒村の寺門を後継するわが子を励ます為に出版費用を用意したものだった。
男根担ぎ佛壇峠越えにけり
京都の橋は肋骨よりも反り返る
首のない暮景を咀嚼している少年
癌の隣家の猫美しい秋である
黒い峠ありわが花嫁は剃刀咥え
暗い地方の立ち寝の馬は脚から氷る
等、幻想的イメージで構成された少年期の俳句を多数収録した同句集は、前衛の退潮しつつあった時代に刊行された無季・非定型・口語による超現実的な17文字の銀河系宇宙の出現であり、戦後日本の全く新たな定型詩文学の出現としてジャンルを超え、各界の表現者へ強い衝撃を与えた。半世紀経った今日も同書は、西川徹郎の代表作として語り継がれ、批評や評論の対象となっている◆同書を読んだ土岐錬太郎は12月「北海道新聞」文化欄の年間回顧欄で『無灯艦隊』を讃え、「新しい前衛の誕生を祝す」と最大限の讃辞を贈った。この言辞が「最大限」なのは、そもそもかつてない新しい試みを意味する「前衛」を「新しい前衛」と称び、更に「誕生」と述べたからである◆当時の俳壇の代表的俳人佐藤鬼房は、伝統俳句の旗手鷹羽狩行(後の俳人協会会長)と比肩し、徹郎を革新の側の旗手と見なした批評を「天狼」誌上に発表した◆北海道大学文学部教授近藤潤一は徹郎へ長文の書簡を墨書で送り、『無灯艦隊』の出港を讃えた◆11月27日療養中の住職に代わり、徹郎は初めて門徒の葬儀の導師を勤めた。通夜の読経の後、初めて通夜布教を行った◆「只今お勤めした『正信念仏偈』さまは〈帰命無量寿如来〉というお言葉から始まっています。このお言葉の中に南無阿弥陀仏のお六字のおいわれの総てが攝まっています。〈無量寿如来〉とはアミダさまのお慈悲のはたらきを讃える言葉です。宗祖は此所で南無阿弥陀仏を〈如来〉様と称んで下さいました。本より〈如来〉とは〈如より来たる〉と書いて如来です。如とは眞實真如の世界です。解り易く云えばアミダ様は浄土より南無阿弥陀仏のみ名となって人間世界に急ぎ来たって下さる如来様です。浄土のアミダ様が何故私たちの人間世界に急ぎ来たって下さるのか云えば、アミダさまは一時も浄土でじぃっとして居ることが出来ない仏様だからです」「中国の善導大師のお聖教にこのような譬えがあります。井戸の周りで子供たちが遊んでいたというのです。それは日常の光景ですが、その中の一人が井戸の中の様子を見ようと井戸の縁によじ登って逆さまになって井戸の中を覗き込んでいたとします。その姿を見たら親ならば決してじぃっとして居ることが出来ません。聲を発するや否や、その子を目掛けて直進して走り、その子を井戸の縁から引きずり下ろし胸の中に抱きとめるであろうというのです」◆「親鸞聖人は『歎異抄』に私たち凡夫の相を〈罪悪深重・煩悩の熾盛〉と申しています。〈罪悪深重〉とは罪悪は深くて重いということです。深いものの譬えは、たとえば井戸です。大地を掘って地下水を汲み上げるのが井戸ですから、これは深いものの一番の譬えでしょう。重いものの譬えは、お寺の境内の庭石です。つまり〈罪悪深重〉とはこの深い井戸に落ち込んでしまった重たい庭石のような、救われ難い存在であるということです。落ちた物が重くてももし落ちた所が浅ければ未だ助かる見込みが残されています。又落ちた所が深くてももし落ちた物が軽ければこれも又助かる見込みが残されています。親鸞聖人のお言葉はその何れでもなく、〈罪悪深重〉です。深い井戸に落ち込んでしまった重たい庭石のような、助かるすべの一切が尽き果てた罪の身がこの私であるということです」「又〈煩悩熾盛〉とは我が身は〈煩悩具足の凡夫〉であるということです。普段どんなに紳士然とした人でも、一言でも心に刺さる言葉を云われただけで忽ちかあっと怒りの炎の燃え立つ浅ましい凡夫の身がこの私であるということです。まるでこの本堂の参詣間の囲炉裏の燠火(おきび)ですね。普段は白く灰がかかり、燃えているようにさえ見えませんが、ふっと息を吹きかけただけで、忽ちふあっと真っ赤に燃え上がります。このようにちょっと心に刺さることを云われただけで別人のように怒りの炎が燃え立つのが、凡夫のこの私の正体なのです。親鸞聖人はそれを〈煩悩熾盛の凡夫〉と申して下さったのです」「謂わば煩悩の火達磨となって地獄餓鬼畜生の真っ暗闇の三悪道の坂道をごろごろと転がり落ちて行く救われ難いこの私の為にこそ、即ち助かる一切の手立てが尽き果てて、十方の諸佛如来に見捨てられたるこの私をこそ助けんが為にアミダ如来は〈マカセヨ、カナラズスクウ、タスクル〉と喚び給いつつ私へ向かって急ぎ直進し飛来して下さる如来様であることを教え諭さんが為に、親鸞聖人は『正信念仏偈』さまの真っ先に〈帰命無量寿如来〉と偈述して下されたのであります」◆徹郎の説法が終わるや、一番後ろに座っていた門徒の老人矢口留吉が、突然起ち上がり、会葬者を両手で押し分けながら前へ出てきた。そして説教の終わったばかりの徹郎へいきなり飛び付くように抱き付いて、こう云った。「いやあ、わしゃは若さんのお説法、今日初めて聴いたわ。何という有り難い、お説法なんだ! 聞いていてわしゃ、涙が止まらんかったわ。わしゃはこれで極楽往生、間違いないわ!」と。未だ得度も受けず、僧侶の資格も持たず、夜毎ただ独りで聖典を読み続けていた徹郎だった。病床の父の法衣を借りて身に纏った徹郎が、生涯で初めて勤めた門徒の通夜の説法を、留吉は本堂一杯の会葬者の前に起ち上がって讃えた。留吉は開基住職證信に育てられた〈妙好人〉とも称ばれるべき峠の寺の嬉しき念仏者の一人だった◆旭川の石田病院で4時間掛けて人工透析を受け、夕刻のバスで寺へ戻ったばかりの腎不全症を患う父證教は、外套で身を包み屈んだ儘、内陣の巻障子の内側に座して、徹郎の初の通夜説法を最後まで耳を澄まして聴いていた。
「あぁ、これでわしは安心した。徹郎はもう何処へ行って説法しても大丈夫だ。誰が聴いても涙が出る」と、徹郎の母貞子に涙を拭いながらそう語ったと云う。
■1975(昭和50)年28歳
◆『無灯艦隊』出版の為に尽力したその父證教は春の雪降る3月6日の朝、行年61で往生の素懐を遂げた。患っていた腎不全症と急性肺炎の併発の為だった。徹郎は旭川の石田病院の病床に横たわる父を前夜、兄徹麿と共に付き添い、深夜ふと脳裡をよぎった一句
死に急ぐ父白髪靡かせ馬のよう
を苦しく喘ぐ父の姿の枕辺で「創作ノート」に書きとめた◆3日後が父の葬儀の日だった。朝から春の雪が降っていた。出棺の頃には境内に停められた霊柩バスに淡い粒状の雪が横殴りに吹き付けていた。徹郎は母や兄、親族に続いてそのバスに乗り込み、バスの乗車口の一段目に足を掛けたその時、瞬間的に脳裡が燦めき一句が生まれた。座席に座るや慌ててその句を「創作ノート」に書き込んだ。不思議な出来事だった。その1句が
父の陰茎の霊柩車に泣きながら乗る (第2句集『瞳孔祭』所収、1980年・南方社)
である/既にこの句は多くの詩人や学者等に批評や論文の対象として採り上げられ、西川徹郎の〈実存俳句〉の初期の代表作の一つと称ばれている◆證教亡き後、徹郎の生家正信寺では證教の子息徹麿・暢子・徹郎・徹博の四人の内、姉暢子を除く男子の誰かが寺門を継承しなければならなった。兄徹麿は既に旭川市に住み教職に就いていた為に徹郎か弟徹博の二人の内の何れかとなった。徹博は父の急逝の報を母より聞き、住職亡き後の寺の存亡を案じ、それまで勤務していた東京の民間会社の勤務を辞め、峠の寺へ慌てて帰って来た。彼は、宗門の大学を休学と復学を繰り返し、遂には自主退学した兄徹郎を危ぶみ、徹郎より先に本山西本願寺で6月に得度を受け、既に釋徹寛の法名を得、その年の盆には寺務を立派にこなしていた◆7月徹郎は「粒」第31号に父亡き後の悲しみの中に在って書き下ろした「馬上慟哭」一百句を発表◆徹郎は何時の間にか立派な僧侶となった弟徹寛の姿を見て意を決し、弟に遅れること4ヶ月経ったこの年の10月15日西本願寺で得度。法名釋徹真を授かる◆第二世住職證教の急逝により生家正信寺の存亡の危機と思われた急場を救ったのは、弟徹博の艇身的な英断だった。徹郎はこの年の得度以降、戸籍上の本名を徹郎より徹真と代え、得度以前の徹郎は筆名として使用し今日に至っている。本願寺派の宗則では寺門を継承しその寺の住職に就くには「教師」という僧侶の位の修得が義務付けられている。抑寺門の子息が宗門の大学へ進学するのは、卒業の特典の中に「教師」資格が付いているからである。父の勧めで前々年から本山が運営する中央仏教学院の通信教育(4年制)を在宅受講し、卒業者には龍谷大学と同じ特典が付いていたが、卒業は未だ数年先の予定だった。◆その為に徹真が教師の資格を修得する迄の期間、徹郎の母貞子は砂川市の親戚寺院西願寺住職で歴史学者西川宗一に代務住職を依頼した◆西川宗一は、旭川市の石田病院で證教を見舞った折に死期を自覚した證教から「徹郎をたのむ」と手を握りしめられていた。宗一と證教とは又従兄弟といった関係だが、宗一はその後の徹郎の文学活動や聖教研鑽の一々を実の子の如く、時に褒め、時に叱咤し、時にしずかに見護った。徹郎も又、宗一を実の父の如く崇めつつ慕った◆生家正信寺の存亡の危機を救った徹郎の実弟徹博(得度後「徹寛」と改名)は、今は旭川市内の民間会社に勤めながら、仕事の合間に徹真と同じように独学で聖教を開き、『歎異抄』等の難解な文句の解読につとめている◆この年、坪内稔典編集の「現代俳句」(大阪・ぬ書房)創刊に参加。更に九州の岩切雅人・岡田悦子等の同人誌「杭」創刊に参加。
■1976(昭和51)年29歳
◆中央仏教学院の通信教育部卒業。「教師」の資格を得た徹郎は、本願寺派安居開催期間(自7月17日至30日の14日間)龍谷大学大宮学舎本講堂で行われる安居とは別教室で「安居専修科(4年制)」という真宗学と仏教学の基礎的講義が宗門より指名された輔教により行われている◆徹真は開校の7月17日、1時間も前から「安居専修科教室」と墨書された教室に入り、最前列の正面に席を取り、開講を待っていた。暫くして後ろを振り向いた時、既に着席した専修科の学生たちが、それぞれ皆同様に机上に見た事のない分厚い黒表紙の書籍を四、五冊積み上げていることが分かった。隣の席の学生に頼んで見せて貰って扉を開いた。それはその殆どの頁が漢文で埋められた『真宗聖教全書』という名の聖典だった。徹郎が龍谷大学を退学後、数年経って父證教より「これを読みな」と手渡され学習してきた『教行信証』は、得度を受けた際、門主より僧侶全員に最初に渡される初学者用の聖典だった◆隣の学生は徹郎にこう云った。「あら? 貴方は、この聖典をまだ見たこともないの? それじゃダメだよ。此所ではこの『真宗聖教全書』で研鑽するんだよ。未だ持っていないなら、帰りに本山前の仏書店で買って帰ったらいいよ」◆徹郎はその言葉を聞いた時、「あゝ、僕はとんでもない所に、間違って来てしまった。僕は一行すら読むことも出来ない。こんな難しい聖典を学ぶこと等、僕に出来る筈がない。まだ開講には時間が4、5分ある。講師の先生たちが入ってくる前に、早くこの教室を出た方がいい」。徹郎はそう考えて寺から持ってきた父證教が使っていた沢山の古い聖典や参考書等を二つの風呂敷に包み込み、それを両手に持って慌てて教室を逃げ出そうとして出口のドアにかけ寄ったその時、二人の僧侶に両脇をかかえられ、身体を揺らしながら教室へ入ってきたのが、『教行信証』研究の近現代の本願寺派の随一の学匠といわれる安居綜理大江淳誠和上だった◆開講式に続き、両脇をかかえられながら教壇に立つや大江和上は、一番前列の正面に据わった徹郎の眼を見詰め、まるで全てを見すかしたかのようにこう語り出した。「此所に居る皆は何かしかの事情で専修科に入ってきた人達だ。聖教の研鑽に遅いということは決してない。誰もが皆、気付いたその時が教学の始まりであり、聖教研鑽の始まりなのだ」。そう語ると和上は黒板へ身を翻し、『教行信証』総序の文を全文漢文でつらつらと板書した。その中の「専奉斯行、唯崇斯信(専ラ斯ノ行ニ奉ヘ、唯斯ノ信ヲ崇メヨ)」の文中の「奉行」「崇信」の法義について語った。◆最老齢に達した大江淳誠和上の『教行信証』の講義を初めて聴いた徹郎は、思わず感動に身が震えた。親鸞聖人の主著『教行信証』の研鑽研究に私も又、一生を捧げんという初志を徹郎はその時心に誓った◆大江和上の両脇をかかえ教室に入って来た二人の学僧は、大江和上の直弟子山田行雄と日野振作だった。当時二人は学階輔教で安居理事を務め、安居専修科の講師を務めていた。日野振作から徹郎は7祖教義を、山田行雄からは安心論題を学んだ。後年共に司教となり、山田は軈て勧学となった。故に大江淳誠、日野振作、山田行雄、この三人の和上は共に徹郎の忘れ得ぬ〈心の師〉なのである◆この年、現代俳句協会の新入会員を選出する全国選挙が行われた。同協会新会員に選出され、同協会の最年少会員となった◆坪内稔典編集する『現代俳句』(ぬ書房)第1集に50句収載。
■1977(昭和52)年30歳
◆3月29日中央仏教学院通信教育部卒業により「教師」資格を取得した◆この年安居専修科を二年で繰上卒業(「得業」予試免除)し、10月1日本願寺派学階「得業」の本試を受験し「得業」となる。(註、本願寺派学階規定では学階を修得する者は予試・本試・殿試を通帳、昇階にも予試・本試の通帳が定められ、「司教」は輔教を授与されて七年以上研鑽した者の中で論文(350枚)審査を通帳した者と定められている)
■1978(昭和53)年31歳
◆5月 門徒責任役員横川定美を伴って上山し、本願寺門主大谷光真より正信寺代表役員・住職を拝命した/7月、安居に大衆得業として初めて懸席し、論題会読の席に出て会読優秀賞を受ける。
■1979(昭和54)年32歳
◆5月「海程」5月号に評論「闇の底から叫び現れてくる声を」9枚発表◆7月安居に懸歴し、会読優秀賞を連続受賞。徹真の会読が大衆の中で評判となった。この頃から周辺の学僧等から「大江淳誠和上最後の弟子」と称ばれる◆長年に亙る徹真の独学研鑽の姿を見てきた司教日野振作は、大江淳誠和上染筆の掛軸一幅を書状と共に徹真へ贈り、「貴方こそ大江淳誠和上の真の弟子だ」と徹真を讃え、激励した。日野振作司教から贈られた善導大師『往生礼讃偈』「初夜礼讃偈」の一句「攝心常在禪」を揮毫した大江淳誠和上の直筆染筆軸は、現在、旭川市七条緑道に建つ西川徹郎記念文學館三階「東雲之間」に展示されている。
■1980(昭和55)年33歳
◆10月1日学階得業の本試通帳/この年、攝津幸彦・宮入聖・大井恒行等と同人誌「豈」創刊に参画。第二句集『瞳孔祭』(南方社)刊行。
■1981(昭和56)年34歳
◆1月坪内稔典編集「現代俳句」(南方社)編集委員となる◆3月「季刊現代俳句」第十集で企画編集された「特集・80年代の俳句─西川徹郎」に50句とエッセイを発表。島津亮が西川徹郎論を寄稿した/5月立風書房『北海道文学全集』(全22巻)が刊行され、空知川や新城峠縁の葛西善蔵や石川啄木・国木田独歩等と共に西川徹郎の第二句集『瞳孔祭』収録される◆7月10日本願寺派学階試験「殿試」を受け学階「得業」修得/以降、徹真は凡そ10年間続けて本願寺派安居(会場・龍谷大学/本願寺)に大衆として懸席し、鬼も涙するといわれる程に厳しき本願寺派安居の論題会読の席に出て会読優秀賞を連続受賞した
◆この年の安居で安居法供会布教を命ぜられ、本願寺総会所で大衆の得業の中から選出されて布教一席を命ぜられる。浄土真宗本願寺派本山西本願寺での初の説教だった。
■1982(昭和57)年35歳
◆この年「読書北海道」(北海道読書新聞社)の俳壇時評欄を一年間連続担当◆『俳句の現在Ⅰ』に近影写真と共に一百句収載◆2月行信教校の真宗聖人講座(十勝)に出席、行信教校校長利井興弘と釧路本行寺住職菅原弌也と会い、強い激励を受ける◆9月『俳句の現在1』(南方社)に100句収録される◆「現代俳句」第十集で特集「80年代の俳句─西川徹郎と若林京子」が企画される。
■1983(昭和58)年36歳
1月「俳句斜塔」(斜塔出版社)創刊号のグラビア「俳人風貌」に登載。同誌に俳人井手都子が西川徹郎論「〈瞳孔〉の周辺」を書く◆4月「季刊現代俳句」(南方社)第十五集の北海道特集「北のことば・北の抒情」を坪内稔典と共に責任編集◆5月★日付「北海道新聞」に評論「現代俳句の新しい地平」発表◆11月「現代俳句研究会」を創設し、加川憲一・加藤佳枝・小南文子・越沢和子等と旭川市内で月二度ずつ開催◆この年、宮入聖編集の総合詩歌誌「季刊俳句」(冬青社)創刊。同誌の維持会員として参画。西川徹郎は宮入聖・攝津幸彦と共に同誌の中心的執筆者なった。
■1984(昭和59)年37歳
◆1月17日84俳句展(東京・銀座、タヵゲン画廊)に出品、気鋭の画家・グラフィツクデザイナー等と俳人の集会〈俳句のグラフィック・アクシデント〉に出席。大井恒行等と会う◆5月評論集『俳句1984』(南方社)の編集委員を務め、「俳句と宗教─〈わが芭蕉論─不在の彼方より〉」を発表◆同月、高柳重信編集の総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)の書評欄を担当、5月より8月までの各号に同時代の書評を寄稿◆同月同人誌「粒」創刊20周年記念全国大会(札幌市)で「原野への、あるいは原野からの出立」と題し、北海道の俳句界の無批評性を問う講演を行った。この講演の主催者山田緑光や園田夢想花等、更には招かれて会場前席に並ぶ道内俳壇の重鎮の面々を震撼させた◆「季刊現代俳句」(南方社)第十九号の座談会「北からの提言」の司会と構成を担当した◆6月文芸誌「銀河系つうしん」創刊第一号を発行、創刊スタッフは加藤佳枝・小南文子の二人だった。後記に幼少の頃より愛誦してきた宮澤賢治の詩集『春と修羅』の序詩を引く。同誌は1985(昭和60)年発行の第四号より発行所を黎明舎と命名、又2006(平成18)年発行の第19号より誌名を「銀河系通信」と改名、現在に至る◆第3句集『家族の肖像』が沖積舎から刊行。栞文を詩人鶴岡善久、短歌評論家で北海学園大学大学院教授菱川善夫と俳人宮入聖が書く。鶴岡善久は「祭あと毛がわあわあと山に」を「従来の新興俳句、前衛俳句がついに到達しえなかった一極地をこの句は占めている」と絶賛/9月現代短歌シンポジウム(札幌市、現代短歌北の会主催)に菱川善夫の要請を受け、パネラーとして出席。シンポジウム会場で北海学園大学教授で短歌評論家菱川善夫と初めて会う/坪内稔典と宇多喜代子が企画した「『家族の肖像』の著者を囲む集会」(会場、池田市宇多喜代子宅)に出席。海風社社主の詩人作井満に初めて会う◆翌日国鉄攝津駅前で大本義幸と共に島津亮に会う。この時の様子を徹郎は後にエッセイ「晩秋の攝津にして」で書いた。
■1985(昭和60)年38歳
◆2月総合誌「俳句研究」〈編集人・高柳重信〉に評論「荒野にて─唯一人で立つ場所」を発表◆3月「銀河系つうしん」第3号発行。「特集・『家族の肖像』論。新作「蓮華寺」50句発表、近藤潤一・千葉長樹・夏石番矢・仁平勝・高橋愁・中上隆夫・上月章が寄稿した◆5月「早稲田文学」(早稲田文学刊行会/講談社)5月号に20句発表◆7月27日午前東京神田神保町の三省堂2階の喫茶店で宮入聖・攝津幸彦と三者会談。攝津とは幾度目かの再会だったが、宮入聖とは初対面だった。「季刊俳句」「豈」「銀河系つうしん」の3誌で現代俳句協会賞に換わる真の俳句文学賞の創設の可能性について協議した◆午後、神保町会館で開催された第7回現代俳句シンポジウムに出席。登壇して新興俳句の旗手と称ばれた細谷源二を紹介し、細谷の名作『砂金帯』「後記」を朗読した。北海道から共に参加していた詩人新妻博は、特別講演を行う/同月28日金子兜太より同人誌「海程」を金子兜太の主宰誌(結社誌)とする旨の葉書が届く。折り返し不同意と退会の意志を伝える◆一一月越澤和子句集『人形連禱』(冬青社)の解説「広く荒涼とした領域へ─越澤和子の俳句」を寄稿◆9月「銀河系つうしん」第4号発行。新作「鬱金の襖」50句と評論「細谷源二の俳句、あるいは地方性という命題」16枚を発表した。同誌に詩壇のスーパースターと呼ばれる清水昶が徹郎への私信形式の評論「俳句を開く扉」を寄稿、又詩壇の代表的評論家の一人北川透が「西川徹郎句集『家族の肖像』論─明暗の裂け目」を寄稿した◆同月14日近藤潤一句集『雪然』出版記念会に出席、刺激的スピーチを行う。徹郎の演説を聴いた聴衆が衝撃を受け一時会場がざわめき波立つ現象が起きた。この記念会の主催者の一人で司会を務めた北海大学大学院教授で前衛短歌の評論家菱川善夫は、その日の模様を「壺」十月号「『雪然』特集」に寄せた論文「唇荒れつつ─司会者の『雪然』論」の中で記述した◆10月「季刊俳句」(冬青社)に新作「月が土足で」50句発表◆同月7日十勝の本別町出身の世界的版画家多賀新展(札幌市・NDA画廊)のオープニングパーティに出席、多賀新画伯と初めて会う◆同月13日小雨降る昼下がり、一千枚書き下ろし西川徹郎論『暮色の定型─西川徹郎論』(沖積舎)を刊行したいという歌人で評論家高橋愁が初美夫妻を伴って来舎。紅葉の山峡新城峠を案内する。
■1986(昭和61)年39歳
◆1月評論家吉本隆明氏より激励の書簡が届く◆第4句集『死亡の塔』(海風社)より刊行。清水昶・鶴岡善久・大井恒行等14名の別冊栞付は詩人で社主作井満の好意の企画だった◆『定本 無灯艦隊』(冬青社)、作者西川徹郎、栞(解説)攝津幸彦、発行人宮入聖という当時の現代俳句前線最強の3人に依る艦隊だった◆端渓社のアンソロジー『其継頌』に50句収載される◆6月道内唯一の総合誌「北方文藝」の編集委員を務める哲学者で札幌大学教授鷲田小彌太が来舎、新城峠の寺に一泊。北海道文学の「批評の現在」について一夜会談。鷲田より「北方文藝」への寄稿と協力を依頼される◆2月『現代俳句十二人集下巻』(冬青社)に「月夜の不在」200句が佐藤鬼房・柿本多映・宮入聖等と共に収載となる◆1月25日「銀河系つうしん」(黎明舎)第5号に50句と細谷源二論「細谷源二の俳句あるいは地方性という命題」を発表◆4月26日「銀河系つうしん」(黎明舎)第6号に50句◆11月30日「銀河系つうしん」(黎明舎)第7号発行。時評的論文「葬送の日の金子兜太─同人誌「海程」の終末をめぐって」を発表した。現代俳壇最大の権力者金子兜太を名指しで批判、前衛の同人誌として創刊した「海程」を金子自らの主宰誌へ強引に壊変した俳壇権力者の虚偽と共にかつて前衛を名乗った彼の追従者等の詩志の変貌ぶりと欺瞞を追求する論文は、現代俳句や詩歌を中心とした文学界に衝撃を与える結果となった。別に本号に「黎明通信№7」42枚を書く◆「豈」第10号に50句発表◆総合誌「季刊俳句」(冬青社)第12号に誌上句集書き下ろし「町は白緑」200句とエッセイ3枚を発表◆現代詩の「四次元実験工房」(矢立出版)に第10号より新作10句連載/瑞渓社発行のアンソロジー『望郷論』(共著)に15句◆『現代俳句の異相』(共著・冬青社)に50句◆『現代俳句の新鋭4』(共著・四季出版)に250句とエッセイ6枚◆『現代俳句の精鋭Ⅲ』(共著・牧羊社)に100句とエッセイ3枚◆「俳句空間」(書肆麒麟)第2号にエッセイ3枚◆短歌ジャーナル誌「シーガル」(几帳舎)第10号の誌上討論「異端の原点」に菱川善夫・高橋愁等と共に参加◆「北方文芸」7月号にエッセイ7枚◆総合誌「俳句四季」(東京四季出版)7月号に一句◆北川透の個人編集誌「あんかるわ」第76号に15句とエッセイ4枚◆月刊「南島」(海風社)第147号にエッセイ6枚◆エッセイ集『緑陰の椅子』(共著・冬青社)に島津亮との邂逅を描くエッセイ「晩秋の攝津にて」8枚◆同人誌「流星」第4号に20句◆同人誌『豈』第11号に50句とエッセイ九枚ほかを発表等、作家として多忙を極めた。
■1987(昭和62)年40歳
◆この年から北海道の総合誌「北方文芸」書評欄を担当、2月号「幾冬暁を見しならん─孤高の俳人斎藤玄」、3月号「高橋愁著『希望の土』評」、4月号「『寺山修司全句集』評」を執筆した◆3月エッセイ集『緑陰の椅子』(冬青社)刊行◆4月「俳句空間」(書肆麒麟)に「結社論─鳴戸奈采との往復書簡」一8枚寄稿◆5月「永田耕衣傘寿祝賀会」(神戸市)に招かれて出席。俳人永田耕衣、詩人・評論家鶴岡善久、寺山修司の旧友・立風書房編集者宗田安正、東京大学総長・俳人有馬朗人、世界的舞踏家大野一雄等と初めて会う◆祝賀会終了後、初めて降り立った港町神戸を徒歩で港沿いのホテルへ戻った。夜の港の見える部屋の窓辺で
港まで永田耕衣を引きずり歩く (第6句集『桔梗祭』所収)
の一句を作った◆帰宅すると詩壇の代表的評論家北川透から書簡と『家族の肖像』についての論文が届いていた◆8月「銀河系つうしん」第8号発行。「黎明通信」50枚を書く◆9月21日正信寺本堂で「フォーク歌手・詩人友川かずきの『及位覚遺稿詩集』出版記念コンサート」を主催、本堂は観衆で一杯になった。徹郎は1ヵ月間毎夜、村中の門徒の家を回りコンサートの案内をして歩いた◆10月21日西本願寺で学階助教の本試を受験◆12月『俳句研究年鑑』(富士見書房)に「今年の評論ベスト5」の選考と所感を寄稿◆同月『俳句年鑑』(角川書店)の「今年の俳人ベスト10」に安井浩司・竹中宏の二人から推される◆総合誌「俳句公論」(小寺正三編集・俳句公論社)に「銀河系つうしん」第7号で発表した「葬送の日の金子兜太─同人誌「海程」の終末をめぐって」が転載される。
■1988(昭和63)年41歳
◆1月東京銀座の三真堂に於る友川かずき「冬の新作展」の栞文「青く光った一本の棘─友川かずき」を書く◆総合誌「俳句芸術」(俳句芸術社)創刊号に作品10句寄稿◆歌誌「新凍土」(8巻春悟主宰誌)に10句寄稿◆総合誌「北方文芸」の俳句時評欄を担当、1回目を寄稿◆第5句集『町は白緑』(沖積舎)刊行。栞文を作家立松和平・詩人青木はるみ・俳人安井浩司が書く◆同月「北海道新聞」書評欄に評論集『球体感覚』(原子修著)評を寄稿◆1月現代詩・短歌・俳句三ジャンルのシンポジウム「スクランブル88─詩表現の根拠を問う」(札幌市教育会館)を短歌評論家菱川善夫と共に主催、代表世話人◆3月「北海道新聞」夕刊文化欄の特集に「〈スクランブルル88〉所感」を寄稿◆3月総合誌「俳句」(角川書店)の特集「俳句の時代の若き旗手たち」に20句寄稿◆『戦後世代の俳句Ⅰ』(冬青社)に「銀河系」一百句収録される◆4月「月光」創刊第1号に20句寄稿◆5月書き下ろし第6句集『桔梗祭』(冬青社)刊行。同書に宮入聖の書き下ろし西川徹郎論「蓮華逍遙─西川徹郎の世界」100枚が並載/同月同人誌「流星」第7号に20句発表◆同月京都の白地社より刊行の現代詩の総合誌「而シテ」(白地社)に評論「悪意の罠」を発表◆6月『町は白緑』を読んだ作家森村誠一より私信が届く。「『サラダ記念日』調の歌や句があふれる世相の中で、西川さんの『町は白緑』は、きわめて抽象度の高い凄惨な句群です。
竹原に父祖千人がそよぎおり
石に打たれて母さんねむれ夜の浜
階段で苛烈な死者と地平見る
窓開き黄いろい死者と地平見る
などは全く凄い句です」と記されてあった◆7月大阪の箕面市の坪内稔典宅を訪問、「銀河系つうしん」用の坪内稔典と対談「現代俳句の新たな磁場を求めて」を行う◆同月『現代日本俳句大系』(近代文芸社)第1巻に38句収録される◆同月俳句総合誌「俳句空間」(大井恒行編集/弘栄堂書店)に「寺山修司の一句」を寄稿◆同月細谷源二の直弟子越澤和子が単独編集の初の読本『西川徹郎の世界』(「秋桜COSMOS別冊 」秋桜発行所、2000部)刊行。同読本に評論家吉本隆明が初の西川徹郎論「西川徹郎さんの俳句」を寄稿、宮澤賢治研究の評論家菅谷規矩雄が「死者の棲むところに─西川徹郎小論」を寄稿。その外に鶴岡善久・島津亮・佐藤鬼房・佐藤通雅・宗田安正・宮入聖・攝津幸彦等、代表的詩歌俳人35名の西川徹郎論と代表作250句及び詳細年譜・書誌等が収載となる◆日本藝術院会員で仏文学者・明治大学教授 飯島耕一は、評論集『俳句の国俳諧記』(書肆山田)の中で西川徹郎を評し「西川徹郎には呪われた異端の匂いがする。呪われたというのは、しかし詩人にとっては光栄を意味している」等と書く◆8月「銀河系つうしん」第9号発行。「黎明通信」50枚を書く。同月『星の降る里あしべつ』(63年度市勢要覧・芦別市)にグラビア写真及びインタビューが掲載される◆同月「ザホッカイドウ・マガジン」に紹介される◆11月後に芥川賞作家となる藤沢周は、11月19日付「図書新聞」に読本『西川徹郎の世界』を紹介し「一天才詩人の現場を目撃する一冊」と書く。
■1989(平成元)年42歳
◆1月弘栄堂書店発行の総合誌「俳句空間」(編集人・大井恒行)の俳壇選者に就く◆同月現代詩の総合誌「四次元実験工房」(矢立出版)の第45号より49号迄、新作20句を連載◆同月短歌総合誌「月光」(弥生書房)の第6号より第8号迄、20句を連載◆4月22日斎藤冬海(本名・斎藤裕美子)と結婚。斎藤は日本女子大学文学部卒業後、東京で角川書店「野性時代」や短歌研究社編集部等に勤務、傍ら小説や評論を書き続けていた。父親齋藤豊は会津若松市収入役を務め、退職後株式会社会津鉄道常勤鑑査役等を務める◆同月総合誌「海燕」(福武書店)4月号の時評「俳句の現在」に皆吉司が西川徹郎を紹介し「十人とゐぬ詩人」と書く◆8月「銀河系つうん」第10号「特集・銀河系句篇89─現代俳句の70俳人」発行。書き下ろし「月光学校」300句を一挙掲載。坪内稔典との対談「現代俳句の新たな磁場を求めて」掲載。関西俳壇の雄竹中宏が時評「西川徹郎句集『町は白緑』の地理」を寄稿◆10月札幌市在住の歌人工藤博子が西川徹郎の第3句集『家族の肖像』を論評した「『家族の肖像』を読んで」が平成元年札幌市民芸術祭奨励賞(評論部門)を受賞した。「さっぽろ市民文芸」第6号に掲載◆同月15日妻西川裕美子は本山西本願寺で得度、法名釋尼裕美を授与される。得度終了後、冬海と共に大津、福山、尾道、岡山、倉敷を訪ねる◆11月21日初冬の新城峠の黎明舎を作家立松和平が二人の激励の為に来訪し、芦別市長東田耕一(当時)を交え、一夜、新城峠の月夜を歓談した。翌日樹齢三千年と謂われる日本随一の水松(一位の木)が樹つ黄金水松公園ほかを案内した◆12月16日付「図書新聞」第1986号に菱川善夫評論集の書評「短歌前衛、その悲惨な抵抗劇─『菱川善夫著』私という剣」が掲載される◆同月平凡社刊行の帝塚山学院大学教授、国文学者乾 裕幸著『俳句の現在と古典』(平凡選書)に「迷宮の胎蔵界─西川徹郎小論」が収載される。
■1990(平成2)年43歳
◆1月4日冬海と共に冬の松島を散策、瑞巌寺を参拝した◆1月6日斎藤冬海の実家会津若松市を訪ね、実父齋藤豊、実母齋藤道子等と一夜歓談した◆齋藤豊は東北で名の通ったエッセイストだが、郡山市在住の詩人・評論家川上春雄は旧知の友人だった。川上春雄はかの戦後日本を代表する評論家・思想家で〈知の巨人〉とも「思想哲学の世界標準」(哲学者鷲田小彌太)とも称ばれる吉本隆明が、最も信頼を寄せる吉本研究の第一人者として知られる詩人・評論家◆かつて徹郎は大学自主退学後の20代初期に当て所無き彷徨の日々を送っていたが、ある夏の日、札幌市の書店で購入した『吉本隆明 初期ノート』を大通公園の青草の中で読み、若き日の吉本隆明の宮澤賢治論等の清冽な哲学的思考に衝撃を受け、「俳句の詩人」として生きる決意をしたという◆その『吉本隆明 初期ノート』の奥付に記載されていた発行所が、徹郎のけして忘れることのない「試行発行所」であり、その発行人の名が「川上春雄」である。豊は徹郎と杯を交わしながら「近々、吉本隆明先生が私の文学について二度目の評論を書いて下さる」と何気なく徹郎の口から出た「吉本隆明」の名を聞いて驚き、又徹郎自身も妻の実父齋藤豊の口から「川上春雄」の名を聞き、その不思議な因縁の輪に驚愕したのだった◆2月「季刊俳句」(宮入聖編集・冬青社)第24号の「未刊句集シリーズ13」に「書き下ろし句集 朝顔の家」100句が一挙掲載される◆3月総合誌「俳句研究」3月号に10句とエッセイ寄稿◆同月「図書新聞」第2000号に「反文学の視座─坪内稔典著『俳句』評」を寄稿/6月10日旭川市在住の歌人西勝洋一の要請を受け、この年の旭川市歌人クラブ総会(旭川市ときわホール)で「定型詩を如何に書くか」と題し講演を行う◆同月「俳句倶楽部」(福武書店)6・7月号にエッセイ「俳句の中の死」を寄稿。同月「宗教」(編集人小端静順・教育新潮社)7月号に布教原案「涅槃の真因」15枚発表/同月7月17日より30日、平成2年度本願寺派安居に懸席◆同月「季刊俳句」第22号に20句と安井浩司句集『汝と我』評を寄稿◆この年の夏、斎藤冬海と共に積丹半島を周遊し、浦や磯の句を沢山作る◆9月21日徹郎の母校道立芦別高校講堂で全校生徒・全教職員650名の前で「青春と文学」と題し講演した。徹郎へ講演の依頼の為に正信寺を来訪したのは、同校の新聞局の顧問をしていた寺坂盛雄という若い教諭だった。当時、正信寺門徒の中に住職徹郎の法話を聴いて歓喜した「現代の妙好人」とも喩えるべき篤信の門徒寺坂鉄蔵・ちや(鉄蔵は2012年6月11日行年99で、ちやは2010年10月6日行年91で往生の素懐を遂げた)の老夫妻が居た。寺坂鉄蔵は新城峠に近い隣村芦別市豊岡で林業に従事していたが、晩年は芦別市街地区に移住していた◆西本願寺で得度し住職となったばかりの若き日の徹郎は、寺坂夫妻の聞法の姿に励まされ、少しでも良い法話をして夫妻に喜んで貰うべく聖教を独学研鑽、何時何処へでも聖教を持ち歩く姿を見た他の僧侶からはいつしか「峠の学僧」「新城の和上」等と呼ばれるようになったと、徹郎は某日、筆者に語った◆夫妻は生涯最期まで峠の寺に参って徹真の法話を聴いて聞法し信心歓喜して報恩の念仏行に生きた。寺坂家の読経に徹郎が訪ねると、帰りは徹郎の運転する車の影が遠く見えなくなるまで雨や雪の中でも路上に佇って徹郎を見送った◆又徹郎が文化的接触の衰退した地方都市芦別市民の為に、東京から某歌人を招いて幾度が主催したコンサート等の会場へも夫妻は小雨降る中を杖を突いて出席し、徹郎が行う社会教育活動を応援した◆その老夫妻の子息が寺坂盛雄(昭和28年芦別生まれ)であり、当時同校の教諭だった◆少年期に通学バスで悪路を揺られながら朝夕車中で多数の詩歌を作ったという母校、道立芦別高校での全校生徒や全教職員へむけた講演は、徹郎には言葉にならぬ程の嬉しさだった。恐らくは寺坂盛雄が校長や教頭へ申し出、或いは教職員会議で申し出て初めて成立した同校で前例の無いイベントだったに違いない。寺坂盛雄は鉄蔵・ちや亡き後は更に寺の門徒総代や参与を務め、又西川徹郎文学顕彰委員会の役員を務め、徹郎の寺務や文学活動を支えた◆2007年の旭川市中心地7条緑道沿いの西川徹郎文學館の建立と開館、2014年の「西川徹郎・森村誠一〈青春の緑道〉記念文學碑」の建立や2014年の新城峠大學文藝講座の開校の為に尽力し、徹郎の社会教育活動を支えた。その姿はまるで妙好人鉄蔵・ちやの生き写しのようにさえ思えた◆この年、西川徹真は自ら代表となり黎明學舎を創設した。黎明學舎は道内の本願寺派僧侶の教学振興の為に札幌別院や自坊正信寺を例会会場或いは合宿会場として教行信証研究会を開催。毎回、徹真が講師を務め『教行信証』の講義を行った◆2007年西川徹郎文學館開館以降は文學館講堂を会場に教行信証研究会は続けて開催されている。黎明學舎創設已来、現在迄の聴講者は延べ800名に及んだ◆10月「銀河系つうしん」第11号発行。「絶叫する箒」140句を発表した。他に作家藤沢周の「連載・西川徹郎論」や前出の東京大学元総長の有馬朗人の「宮澤賢治と西川徹郎」、斎藤冬海の短篇小説、新城町出身の八千代国際大学元学長で理論経済学者髙瀨浄の「現代への視線」など満載◆同月「俳句とエッセイ」(牧羊社)10号に30句寄稿◆11月30日『菱川善夫評論集成』刊行記念シンポジウム(会場・札幌市センチュリーローヤルホテル)で「菱川善夫と定型詩の現在」と題して講演。北海道大学教授で国文学者近藤潤一や同大学助教授神谷忠孝、同大学講師工藤正廣等、多数の大学関係者が集合する中での講演だった◆この日の徹郎の講演を聴いて衝撃を受け、異常な興奮をおこした帯広在住の某歌人が、3次会の席で激高、いきなり徹郎へ掴みかからんとした時、菱川善夫は「西川徹郎を侮辱する奴はわしが許さん!」と叫び、身を挺して暴漢をとどめた。西川徹郎は暴漢の激高よりも暴漢の前に起ち上がった痩身の菱川善夫の声の迫力に驚いたと後日、筆者に語った◆その当時、西川徹郎の立つ場所には、常に徹郎が発する言葉の強い気魂が聴衆の発揚を促せ、それが目に見えぬ磁場を形成したと思われる。何れにせよ、熱い熱い1日1夜だった◆この日の講演は「銀河系つうしん」第13号(1992(平成4)年)に収載されている◆翌日、12月1日千歳空港より航空便で大阪空港へ降り立った。大阪市内で開催された「倉橋健一を語る会」に招かれていた為だった。倉橋健一・青木はるみ・中川幾郎等、関西文壇を代表する多数の詩人や論客たちとの忘れられぬ大阪の一夜の討論のひとときとなった◆「豈」第12号に作品20句発表◆北川透個人編集誌「あんかるわつうしん」終刊第84号にエッセイ「さよなら、あんかるわ」を寄稿◆「豈」第13号に20句◆同第14号に20句発表◆総合誌「俳句空間」第17号に書評6枚寄稿。
■1991(平成3)年44歳
◆毎日新聞社発行の「毎日クラブ」別冊「特集・現代俳句の女流」に「北海道の女流俳人」を寄稿◆1月中央佛教学院同窓会発行の「北の芽」第27号、第28号に「教行信証聞信録」31枚寄稿◆「季刊俳句」第27号に季評を寄稿◆4月20日午後、斎藤冬海を伴って東京・本駒込の吉本邸を訪問、吉本隆明と会談した。吉本隆明は刷り上がったばかりの「試行」を積み上げた書斎へ私達二人を迎え入れ、札幌行寝台列車「北斗星」の発車の迫る夕刻まで歓談し、斎藤冬海は吉本隆明と私と二人の記念写真を撮った。玄関口で私たちを見送った吉本隆明は最後に「ぼくは貴方の書くものは全部読んでますから、頑張って下さい」と、丁寧にそう言った◆5月6日7日冬海と共に残雪のオンネトーと阿寒湖湖畔に遊ぶ◆宮入聖編集のアンソロジー『赤黄男』(冬青社)創刊号に50句を発表◆7月「銀河系つうしん」第12号発行、「書き下ろし月山山系210句」と「特集・島津亮」に島津亮論「島津亮序論─存在の危機性に就く」を発表◆「俳句倶楽部」第7号(福武書店)に「俳句の中の死」を寄稿◆同第8号に「鑑賞的俳句時評」寄稿◆「豈」第15号に40句発表◆総合誌「俳句空間」第18号(弘栄堂書店)に評論「悲惨と栄光の砦」発表◆この年から本願寺派札幌別院を会場にした黎明学舎教行信証研究会を開催、徹真が専任講師として連続講義を行う。
■1992(平成4)年45歳
◆8月第8句集『月山山系』(書肆茜屋)刊行◆『月山山系』を読んだ哲学者梅原猛より11月7日付の私信届く。「(月山山系は)不思議な句です。月の世界へ迷い込んだような」と梅原猛の直筆で認めてあった◆思潮社発行の現代詩の総合誌「現代詩手帖」4月号の「特集・短詩型のゆくえ」に13句寄稿◆銀河系つうしん」第13号に作品「月の楡一160句」発表◆谷口愼也発行の「連衆」に書き下ろし50句寄稿◆ふらんす堂の『現代俳句文庫5西川徹郎句集』刊行。解説は芥川賞作家藤沢周の「町は白緑 西川徹郎論」載録。
■1993(平成5年)年46歳
◆1月講談社学術文庫『現代の俳句』(平井照敏編)に高浜虚子・種田山頭火等と共に明治以降の107人の代表作家の一人として作品30句と肖像写真、略歴が収載◆巻末に編者・詩人平井照敏が解説を執筆、平井は現代の俳壇を代表する精鋭の4人の中の一人として西川徹郎の名と作品を挙げた◆二月五日斎藤冬海を伴って郡山市の試行発行所を訪問、吉本隆明研究の第一人者川上春雄と親しく会談◆東京四季出版刊行の『最初の出発4』に『無灯艦隊』一100句が収載される◆解説者三橋敏雄は「出藍の句集─西川徹郎句集『無灯艦隊』」を寄稿◆毎日新聞社発行『俳句&アルファ』第3号に「芭蕉の一句」を寄稿◆「茜屋通信第1号─西川徹郎のCOSMOS」(書肆茜屋)創刊。西川徹郎の書き下ろし「龍大一100句」発表。立松和平・菱川善夫・高橋愁・まつもとかずや・谷口愼也・斎藤冬海等が寄稿◆3月16日早朝、横浜市在住の世界的舞踏家大野一雄より突然の電話があった。大野一雄は「『現代俳句文庫⑤ 西川徹郎句集』(ふらんす堂)の貴方の俳句を識って驚き、声が聞きたくて思い余って電話した」と語った。舞踏家大野一雄には1987年神戸で開催された「永田耕衣傘寿祝賀会」の会場で初めて会った。「一度また何処かで会いたい」と語って大野一雄の電話は切れた◆『蓮師教学研究』第3号(光蓮寺佛教研究会/探究社)に「31文字の聖教─蓮如上人の御詠歌について」寄稿◆11月札幌市在住の歌人・文芸評論家高橋愁が、1992年1月2日より書き始め同年8月30日までの僅か8カ月間で書き下ろした1000枚の評論『暮色の定型─西川徹郎論』(沖積舎)の函入上製本と普及本の2種が沖積舎より同時刊行となる◆この年、本願寺派総局より学階「輔教」が授与される。本願寺派学階規定では本願寺派の最高研修機関と定められた「安居」に懸席し、安居論題会読賞を得業の中で三回以上受賞した者は助教への昇階の予試が免除され、助教となり3回以上受賞した者は輔教への予試が免除される。徹真は本願寺派安居の会読優秀賞を学階得業を修得以降7年連続受賞、その為に学階規定に基づき龍谷大学大学院を履修せずして、学階輔教位が授与された。
■1994(平成6)年47歳
◆北海道教区教学研究発表会で「信一念義の研究」と題し研究発表を行う◆『北海道教区教学研究紀要』第3号(北海道教区教学委員会編)に「唯信独達の思想─『教行信証』における救済の原理」発表◆同論文を読んだ勧学寮頭赤山得誓より賞讃の私信が届く◆7月6日より一一日迄本山西本願寺の常例布教に出講、6日間に亘り24席の布教を行う◆本山常例布教に引き続き7月11日より12日迄滋賀県米原市磯の琵琶湖邉の古刹上妙寺の別修永代経法要に出講、2日間7席に亘り布教讃歎を行った◆この折に上妙寺住職から江戸末期に活躍した妙好人椋田與市の存在を知らされた。◆12月「銀河系つうしん」第15号発行。「特集・立松和平の世界─同時代の文学①」、高橋愁の立松和平論「禁止の夏日」170枚。斎藤冬海の同「龍のいる場所」70枚。立松和平年譜等を収録◆西川徹郎の新作「秋ノ暮」115句の一挙掲載◆松本健一の評論「形無きものを……─西川徹郎の俳句」を掲載した。◆この年銀河系俳句大賞を創設。第1回を「連衆」発行人谷口愼也に決定。
■1995(平成7)年48歳
◆3月6日午前3時3分、会津若松市の県立病院で長男龍大が出生した。誕生を祝し3日2夜で「龍大一100句」を書き下ろす◆6月4日北海道近代文学懇話会1995年度第1回集会(札幌市教育会館)で北海学園大学教授菱川善夫と共に講演。菱川は現代短歌の問題を語り、徹郎は「俳句の根拠─何故、俳句でなければならないのか」と題し、俳句の根拠について語った◆同月「茜屋通信」(書肆茜屋、註・現、茜屋書店)創刊第1号発行。特集「西川徹郎のCOSMOS」「龍大一100句」掲載◆立松和平の「行者のことば─西川徹郎小論」、まつもとかずやの「かなしくも黄金─西川徹郎論」等を収載◆8月2日付「北海道新聞」に図書出版書肆茜屋の創立が報道される◆9月谷口愼也著『虚構の現実─西川徹郎論』刊行◆竹澤洪信発行「銀の鈴」終刊号に真宗学論文「『教行信証』「行巻」法体釈の「必得往生」の御私釈について」発表◆12月『現代仏教人名録』(東京寿企画)に大谷光真・中村元・大江淳誠・早島鏡正・北畠典生・高田光胤・瀬戸内寂聴等、現代日本の代表的仏教人と共に西川徹真の詳細な経歴が収録される。
■1996(平成8)年49歳
◆2月10日小南文子句集『青海亀の泪』(書肆茜屋)刊行。徹郎は帯文に「売られゆく牛の眼青い稲梳かれ 文子」を「詩精神を喪失した現代俳句の〈現在〉に於て本書こそ深海の秘寳と喩えられるべきである。息絶えるその日迄著者は、俳句形式の詩魂を呼吸しつつ、まるで詩神の影のように秘やかに只黙々と自身の俳句を書き続けてゆくことであろう。推薦 西川徹郎」と書く◆札幌市の北星学園大学国際交流学科の特別講師として出講。講題は「松尾芭蕉と現代の俳句」。担当教授は詩人・英文学者矢口以文。以後は97年・99年と3回に亙り講義した◆3月8日付「北海道新聞」夕刊の特集シリーズ「北海道ひと紀行」欄に特大の近影写真入で紹介される◆「銀河系つうしん」第16号「特集・極北の歌人高橋愁」を発行。徹郎はこの号の後記「黎明通信№16」に「俳句朝日」創刊号の角川春樹作品掲載に対する抗議声明文の首謀者現代俳句協会青年部の姿勢に対し厳しく批判を書く◆又「本誌(註・「銀河系つうしん」)の編集発行の基本思想が〈反中央〉にあることは間違いないことだ。しかし本誌の思想は〈反中央〉というテーゼのみではその幾分かを語ったことにしかならない。〈反中央〉を標榜する地方の雑誌を私は幾冊か知っている。だが、その多くが余りに容易だ。何故なら〈反中央〉をのみ掲げる限り自らの脚下が問われることは無いからだ。権力依存を生み出す驕慢の無責任の風土は自らの脚下にこそ地縁血縁の分厚い層を重ねている。〈反中央〉の掲げた剣を打ち返してはそのまま自らの脚下を斬る、〈反中央・反地方〉の絶体絶命の思想こそが今鋭く問われてゆかねばならぬ。「銀河系つうしん」はその〈反中央・反地方〉の狭間の峻路に烈しく棚引く阿修羅の旗だ。俳句というこの手の切れそうな煌く詩形式を唯一の最後の武器として、私は何処迄も私自身の俳句を書き続けて行く」と徹郎は〈反中央・反地方〉の絶体絶命の思想について書く◆4月2日「銀河系つうしん」第16号を読んだ日本大学名誉教授・文藝評論家笠原伸夫より「銀河系つうしん」を賞讃する私信が届く◆4月4日付「東京新聞」コラム「大波小波」欄に「黎明通信№16」に書いた徹郎の現代俳句協会青年部への批判が紹介され、「俳句は生死を賭けた孤立者の唯一残された最後の武器である。北海道芦別で実存俳句の旗を掲げて阿修羅の如く叫び続けている西川の、胃の腑に落ちる正論だ」と報道される◆同月『現代俳句集成』(宗田安正編/立風書房)が刊行された。同書に寺山修司・鷹羽狩行等と共に現代俳句の代表作家の一人として150句とエッセイ「地獄の文学」が収録される◆10月1日より6日迄、本山西本願寺の常例布教に出講、5日間26席布教した◆同月4日京都東山の親鸞聖人縁の青蓮院植髪堂で布教した。布教記念として青蓮寺門主揮毫の清水焼茶器を頂戴した◆10月23日北星学園大学(札幌市)国際交流学科で特別講義、講題は「松尾芭蕉の俳諧と現代の俳句」
■1997(平成9)年50歳
◆1月本山西本願寺の御正忌報恩講通夜布教の布教使を拝命。15日夜、2席の布教讃歎を行った。全国から集まった3000、4000人にもならんとする多数の聴聞衆が、徹真の説法を聴いて皆一様に瞼を拭った。その時の説法は、親鸞聖人の師である法然上人の弟子耳四郎の獲信についての法話だった。京の都一番の悪党といわれた盗賊耳四郎は、ある日、法然上人の庵室の床下に潜り込んで身を隠していた。その結果、思いもよらず法然上人の説くミダの本願の〈悪人正機〉の説法をその床下で聞くこととなった。床板越しに轟くように聞こえてきたのは、「汝をこそたすくるぞや」「十方の諸仏如来に見捨てられたる悪人罪人をこそ助けんがための弥陀如来の本願にましますなり」というアミダ如来の本願大悲を説く法然上人の朗々とした説法の聲だった。やがて耳四郎は床下を這い出て、法然上人に直接会ってこう訊ねた。「京一番の悪党のこの私でもほんとうに助かるのか」と。法然上人は耳四郎にこう答えた。「助かるとも、助かるとも。この私でさえ助かるのだから汝が助からんことは無いのだ」と。法然上人の口元から発せられた〈この私でさえ〉助かるという叡山一の碩学法然上人の言葉を聞いて、耳四郎の全身に衝撃が走った。法然上人のこの言葉を聞いて耳四郎は忽ち信を獲、念仏者となって法然上人の弟子となった。その後、耳四郎は法然上人に生涯仕え、身を挺して逆賊から上人を護ったという。徹真の口から迸る如来大悲の説法に満堂の聴聞衆が皆瞼を押さえ、やがて念仏の聲が津波のように湧き起こったという◆8月下旬一週間で一気にエッセイ33篇を脱稿、エッセイ集『無灯艦隊ノート』の版元、蝸牛社へ送った。
■1998年(平成10)年51歳
◆1月哲学者梅原猛より1月17日消印の書簡が届く。其処には第9句集『天女と修羅』(書き下ろし一145句収載・沖積舎)を読んだ感想が記され、「『天女と修羅』拝受、大へん鮮烈な詩です。緊迫した詩情がほとばしり、伝わります」と書かれていた◆1月6日付「北海道新聞」に『天女と修羅』紹介される◆2月20日33篇のエッセイと俳句を収載するエッセイ集『無灯艦隊ノート』(蝸牛社)刊行◆3月1日付「北海タイムス」に「俳句革命を宣言」との大見出し付で『天女と修羅』の刊行が報道される◆6月高橋愁の批評小説『わが心の石川啄木』(書肆茜屋)刊行。明治と平成の一100年間の時空を越えた石川啄木と西川徹郎の邂逅を描く小説だった◆同月作家立松和平の仏教論エッセイ集『仏に会う』(NTT出版)に「行者のことば─西川徹郎小論」が収録され、著者立松和平より献呈を受ける◆同月『現代俳句の世界』(責任編集・齋藤愼爾/集英社)の「日本の俳壇」に現代の代表俳人の一人として有馬朗人・金子兜太等と共に略歴・代表作品30句・近影写真が掲載される。編者の紹介文に「未ダ眼ガ見エテ月ノ麦刈リシテイタリ 徹郎」「反季・反定型・反結社主義を標榜し、〈私〉という実存の闇を照射する北天に輝く孤高の星」とあった◆同月現代詩の総合誌「現代詩手帖」(思潮社)6月号に『天女と修羅』『無灯艦隊ノート』を読んだ評論家小笠原賢二が「幽閉の中の開放」と題した絶讃の書評を書く◆同月総合誌「俳句四季」(東京四季出版)6月号の「特集・戦後生まれの俳人」に自選代表四十句とエッセイ、略歴と近影写真が掲載される◆同月作家森村誠一より『森村誠一読本』(KSS出版)の贈呈をうける。戦後日本の闇を全力で問い続ける森村誠一の作家精神にいたく感動する◆7月『日本仏教文化論叢下巻』(北畠典生博士古稀記念出版・永田文昌堂)に論文「妙好人俳諧寺一茶と浄土真宗」が収載される◆同月吉本和子第一句集『寒冷前線』(深夜叢書社)の献呈を受ける。清冽な詩情に驚く。著者は吉本隆明夫人だった◆8月8日付「図書新聞」に文芸評論家小林孝吉の『わが心の石川啄木』(高橋愁著・茜屋叢書②)の書評「西川徹郎と石川啄木」が掲載される◆9月13日芦別市新城出身の理論経済学の第一人者髙瀨浄(秀明大学顧問・八千代国際大学前学長)が黎明舎に来訪。「地方と文明」をテーマに会談した◆9月東京築地本願寺の彼岸中の5日間の常例布教を拝命、20席の布教を行う◆山口県出身の輪番蓮清典(後に本願寺派総長)は〈布教使で学問僧の西川徹真が、現代俳句作家の西川徹郎〉であると知って驚き、築地市場のマルニ水産株式会社社長で金子みすゞ振興会代表二村貞雄と金子みすゞの朗読女優小口ゆいを紹介、一夜輪番蓮清典と共に会談した。徹郎はこの日詩人金子みすゞの存在を初めて知った◆11月1日『一億人のための辞世の句』(坪内稔典選・蝸牛社)が刊行された。同書に
不眠症に落葉が魚になっている
の一句が選出され、「この句は私の第一句集『無灯艦隊』の巻頭句で、芦別高校在学中の10代の頃の作品である。切実に生きた少年の日の私には一日一日が最期の日であり、臨終との思いであった。従ってそれ以降書き続けてきた一句一句が私にとっての辞世の句にほかならなかった。この句をもって「私の辞世の一句」とする所以である」という徹郎の自注と坪内稔典のコメント「西川さんは現代の代表的俳人の一人。北海道に住み、僧侶でもある」が収録される◆同月一145句書き下ろしの第9句集『天女と修羅』(沖積舎)刊行される。栞文を研生英午が書く◆11月1日『1億人のための遺言状』(蝸牛社)にエッセイ「わが子龍大へ」が収録される◆12月「銀河系つうしん」第17号発行。「特集・平成俳句の光源。13の異星」現代俳句の前線で活躍する13人の俳人の50句とエッセイを特集した◆「一夏の夜叉」一10句と「吉本隆明の「親鸞論」解読『最後の親鸞』を読む」を発表◆同誌上で第2回銀河系俳句大賞の授賞者を柿本多映・故攝津幸彦と決定発表◆「俳句の前線」に吉本和子登場◆故太田美紀子の誌上遺句集「朧月」一71句掲載◆同月「宗教」(小端静順編集・教育新潮社)12月号に「『教行信証』における「信巻」の位置」を発表。
■1999年(平成11)年52歳
◆「北海道新聞」7月2日付夕刊に「吉本隆明と親鸞思想─自己という名の絶対性の錯誤、人間の思惟と理性が持つ根源的な病理」を発表◆「北海道新聞」11月22日付夕刊文化欄に「「実存」の剣を掲げて戦う」を寄稿◆第10句集『わが植物領』(沖積舎)刊行◆9月本願寺派所属布教使の布教講会に出席、布教実演を行う◆11月2日奈良県生駒市で高校の教員をしていた実兄徹麿が心筋梗塞を発症して行年57で逝去。同月6日板垣脳外科病院(滝川市)に入院していた実母貞子が鬱血性心不全症で行年80で往生の素懐を遂げた◆「北海道新聞」11月7日付朝刊全道版に貞子の訃報が「西川貞子さん(俳人西川徹郎=徹真氏の母)6日鬱血性心不全の為死去。79歳。葬儀は9日午前10時。同市新城町248正信寺で。喪主徹真氏。同氏は、季語を廃して人間の内面を詠む「実存俳句」の創始者。『現代の俳句』(講談社)が選ぶ俳句作家107人の一人」と報道された◆母兄の二人を喪い、悲哀窮まり49日迄の期間に「月夜の遠足」130句を書き下ろした。北見市在住の世界的書道家久保観堂に全句染筆揮毫を依頼した。
■2000(平成12)年53歳
◆1月6日「月夜の遠足」130句を脱稿し、書道家久保観堂へ送る◆同月7日「母と兄の事─『月夜の遠足』覚え書」23枚脱稿◆同月8日より月1回の「北海道新聞」のコラム欄「朝の食卓」を2年間担当◆同月12日第10句集『わが植物領』を読んだ哲学者梅原猛より書簡が届く。「正月に、先にお送りいただいた句集『わが植物領』読みました。特に比叡の句に鬼気迫るものを感じました。実存俳句といわれますが、実存を超えているように思います」と記されていた◆関西在住の戦後俳句の代表俳人の一人鈴木六林男より書簡があった。「〈反中央・反地方〉、一人の友が北海道に居る気分になり、その精神に賛同です。深い雪の中の思索者に御禮迄」と記されていた◆沖積舎刊行予定の『西川徹郎全句集』に収録する未刊集として既刊句集未収録の作品の中から2007句を選出し、第12句集『東雲抄』と命名し全句集に収録することとした◆2月19日築地本願寺(西本願寺東京別院)輪番蓮清典の要請に依り築地本願寺仏教文化研究会(会場・築地本願寺講堂)で「妙好人小林一茶と浄土真宗」と題し講演。築地本願寺講堂が聴講者で満堂となった◆3月久保観堂が染筆揮毫した全130句を影写版和装本の第11句集『月夜の遠足』(茜屋叢書①書誌茜屋)として刊行◆4月1日付「図書新聞」に詩人雨宮慶子による第10句集『わが植物領』の書評が掲載される◆同月『名句鑑賞辞典』(角川書店)に句集『月山山系』所収の「抽斗の中の月山山系へ行きて帰らず」が、阿部完市の鑑賞文と共に収載される◆10月14日付「図書新聞」に評論家小笠原賢二が「実存の波濤」と題し書評を寄稿。「実存俳句」について徹郎自身の言葉に依り「逃げ隠れようも無い人間の凄絶な生の実相」と書く◆「関西文學」2月号「特集 世界のなかの俳句」に「母は蘭」12句収載される◆『西川徹郎全句集』(沖積舎、A5判天金装・974頁建、全13句集・5338句収録)が刊行される◆解説は評論家吉本隆明が2編目の西川徹郎論「西川俳句について」を書く◆9月9日付「東京新聞」コラム「大波小波」欄に『西川徹郎全句集』の刊行が報道される。西川文学を「日本語の限界と可能性への挑戦」であると高評された◆この年群馬県立土屋文明記念文学館第11回特別展「2000年百人一句パノラマ現代俳句」に「ねむれぬから隣家の馬をなぐりに行く」(第2句集『瞳孔祭』南方社所収)の一句が展示される◆北上市の現代日本詩歌文学館の常設展に「顔裂けて浜昼顔となるよ姉さん」(第4句集『死亡の塔』海風社所収)の一句が石川啄木・北原白秋・斎藤茂吉等の作品と共に展示される◆7月30日沖積舎より『西川徹郎全句集』(天金装・A5判・函入美装本・973頁建)が、西川徹郎の既刊・未刊全13句集、総5338句を集成し、解説・吉本隆明「西川俳句について」や研究文献目録等を収録して刊行され、全国の主要書店店頭で発売される。帯文には「吉本隆明氏、絶賛!俳句の詩人の全句集 俳句の革命、40年の精華、解説・吉本隆明 正岡子規以来の近現代の俳句の極北に輝く阿修羅の詩人西川徹郎の未刊句集2冊を含む全13句集、〈実存俳句〉総5338句を集成!」と記載される。
■2001(平成13)年54歳
◆5月27日芦別市の都会館で『西川徹郎全句集』『斎藤冬海短編集』の出版記念祝賀会を開催、芦別市民や道内外の支持者100余名が参集した。その中にはかつて徹郎は龍谷大学へ進学し、前衛俳句の赤尾兜子の同人誌「渦」で活躍したが、その頃同誌の同人だった大津市在住の柿本多映や札幌在住の詩人新妻博や函館在住の俳人杉野一博等が遠路駆け付け出席した◆新妻博は徹郎が現代詩「尼寺」「月夜」を書いた20代の頃、北海道詩人協会会長を務め、『北海道詩集』(北海道詩人協会編・北書房)に徹郎の詩を選出収載した人だった。1984年個人誌として「銀河系つうしん」を創刊した時、閉塞した道内俳壇の非難の嵐の中に在った。新妻博は総合誌「北方文芸」時評で「銀河系つうしん」の文学上の意義を論じ、西川徹郎への支持を宣言した◆翌朝、28日徹郎は新妻博・杉野一博・柿本多映等を新城峠頂上の展望台へと案内した◆7月學燈社発行の国文学の学術誌「國文學─解釈と教材の研究」7月号〈特集・俳句の争点ノート〉が発行され、全国書店で発売される。同誌には編集人の強い要請に応えて寄稿した「反俳句の視座─実存俳句を書く」が収載された。同論文の反響は俳壇を超え、現代詩や川柳界を始め他ジャンルの表現者へも強い衝撃を与えた。北は稚内から南は沖縄の那覇市まで書店や學燈社へ問い合せが相次いだと謂われる◆前年刊行された『西川徹郎全句集』の新装普及判が沖積舎より刊行される◆この年『教行信証研究』(黎明學舎・茜屋書店)創刊第1号を発行◆9月『東浦道子詩集』(茜屋北斗叢書①書肆茜屋)に帯文「北に樹つ詩と詩人! 北海道は空知の野に在って自己を瞠めつつ只一人で書き続けて来た絶世の閨秀詩人が、今、かの地中湖の紫紺の漣のようにうち震え、たゆたう内奥の声を綴り出す。〈詩とは何か〉、この根源の問の閃光を放ち密かに自己の内部の詩の源泉に耳を開く。ここに北の地の清冽な詩と詩人が樹っているのだ。〈推薦*西川徹郎〉」を寄稿した。
■2002(平成14)年55歳
◆2月25日より5日間本山西本願寺常例布教の布教使拝命、西本願寺本堂に於いて16席の布教を行う◆5月4日(寺山修司13回目命日)に北海道文学館「特別展 寺山修司~燦めく闇の宇宙~」(監修・山口昌男)で北海学園大学大学院教授菱川善夫と共に記念講演。寺山修司のファンが押し寄せ、会場は満堂となった◆寺山修司特別展の記念誌『寺山修司の二十一世紀』(北海道文学館発行/編集長山口昌男)に寺山修司論「17音の銀河系─寺山修司は何故、俳句を辞めたのか」を寄稿した。この図録の寄稿者は山口昌男(文化人類学の第一人者・札幌大学学長)・九條今日子(寺山修司生涯のパートナー)・荒木経惟(写真家)・横尾忠則(美術家)・三上寛(シンガーソングライター)・菱川善夫(短歌評論家・札幌大学教授)等だった◆午後、北海道立文学館に隣接する劇場ZOOを会場にした「朗吟・寺山修司」に出演、徹郎は寺山の10代俳句を朗読した◆満席の聴衆の中には最前列の席でスポットライトを受けるステージ上の徹郎へ眼を凝らし、朗吟を聴く中老の紳士が一人居た。徹郎の叔父で北海道新聞社友神埜努(かんの・つとめ)だった。神埜努は徹郎の母貞子の実弟で空知郡南幌町の浄土真宗本願寺派妙華寺の生まれ。北海道大学文学部卒業後、北海道新聞社編集局に勤務し、若き日の徹郎の文学活動を陰で支えた。努は新城小学校時代、修学旅行で札幌を訪れた徹郎を大通公園で出迎え、西欧の童話集を贈り、初めて世界文学の一端を徹郎に教えた人だった◆9月『星月の惨劇─西川徹郎の世界』(『西川徹郎全句集』刊行記念論叢・A5判・730頁建、茜屋書店)刊行。梅原猛・森村誠一・立松和平・松本健一・稲葉真弓・笠原伸夫等、各界の代表作家54名が西川徹郎論を寄稿した◆哲学者梅原猛は「『無灯艦隊ノート』について─ボードレールの散文詩を思わせる」の中で「私は生き物に対するこのような凶暴な愛情をうたう俳人をみたことがない。その意味で西川氏の俳句は実存俳句というよりアニミズム俳句であるが、このアミニズムはその根底に殺し殺されるという凶暴な関係を秘めているのである。(略)俳句もさることながらむしろ俳句の説明のために書かれた随筆により美しい詩を感じた。これは西川氏の自伝でもあるが、結構、散文詩にもなっている。特に祖父の死後、祖父にそっくりな人間が家にやってきたことを記した「訪問者」、及び「蝙蝠傘」に生ける蝙蝠という恐ろしい鳥の霊を感じた「蝙蝠傘」など、ボードレールの散文詩を思わせるほどであった」と論評した◆詩人・評論家研生英午は「空の谺─実存俳句の行方」を寄稿し、徹郎を「詩聖」と称び、「ジャン・コクトーに見出され、夭折したフランスの作家レーモン・ラディゲの『肉体の悪魔』の再来かと思わせる、初学の頃の西川の天才ぶりは、誰もが舌を巻くものだった」と記述した◆10月15日付「東京新聞」コラム「大波小波」欄は西川徹郎を「怪物的俳人」と呼んで『星月の惨劇─西川徹郎の世界』の刊行を報道し、「西川は〈反季反定型反結社主義〉を掲げるだけではない。俳句は単なる遊びではなく、〈詩作〉であり、実存を貫く〈極限の行為〉だという。近年は一句の完結度よりも連作・群作の方法に依って矢つぎ早に句集を刊行している。ブルドーザーめいたエネルギーである。北辺の地に在り、中央志向の俳壇に抗して俳句のイメージを塗り替えようとしている。芭蕉や子規の革新精神を忘れて保守化し面白味を無くした俳句の現代を見るとき、西川のような前衛的表現者は尊い」と西川文学を紹介した◆10月17・24日付「週刊 仏教タイムス」にジャーナリスト長谷川現道は『星月の惨劇─西川徹郎の世界』を「孤高の東洋的実存」と題して報道。「椿墜ち百千の馬車駆け出さん」等を掲げ、西川俳句を「日常感覚のはるか向こうの、はるかに深い人間存在の根源に迫る世界」と評し、「死と共に生きている深い自覚があるからこそ西川俳句の底には確かに孤高の東洋的実存が流れているのである」と伝えた◆10月21日付「世界日報」に『星月の惨劇│西川徹郎の世界』(斎藤冬海編集)の増子耕一評《天才詩人の神髄論じる》が掲載される◆『西川徹郎自撰自筆句集』(A5判・自筆影写版 沖積舎)が刊行される。■2003(平成15)年56歳◆第13句集『銀河小學校』(書き下ろし5076句収載・A5判・648頁建)、『世界詩としての俳句─西川徹郎論』(櫻井琢巳著)が沖積舎より同時刊行◆櫻井は同書でボードレール・ランボー・アポリネール等の世界の詩人と西川徹郎の超現実的実存俳句との比較論を展開、西川徹郎の〈世界詩としての俳句〉を論証した◆2月『関西文學』(編集・関西文学会/発行・澪標)36号に「銀河燦然」12句寄稿。
■2004(平成16)年57歳
◆総合誌「俳句界」(文學の森)1月号に「〈革命前夜〉の寺山修司」を発表◆北上市の日本現代詩歌文学館常設展に正岡子規・北原白秋等と共に『銀河小學校』の一句「小學校の階段銀河が瀧のよう」が展示される◆2月6日付「週刊読書人」に稲葉真弓が西川徹郎の五千句書き下ろし句集『銀河小學校』と桜井琢己著『世界詩としての俳句│西川徹郎論』の書評が掲載される◆2月28日付「図書新聞」に文芸評論家・法政大学教授の『銀河小學校』評発表される。◆立川市の立川病院に小笠原賢二を見舞う◆『極北の詩精神─西川徹郎論』(茜屋叢書④/茜屋書店)刊行。同書に「」◆『美と思想─菱川善夫』(沖積舎)に「火の斧を抱えた旅人─菱川善夫論」が収録される◆11年『現代俳句 新世紀』下巻(北溟社)─西川徹郎自選二百句と評論「文学としての俳句─細谷源二と星野一郎」収録される。
■2005(平成17)年58歳
◆10月16日、口語俳句協会会長田中陽の度重なる要請に応え、松尾芭蕉縁の静岡県島田市を来訪し、第50回口語俳句全国大会(口語俳句協会主催・島田市)で「口語で書く俳句─実存俳句の思想」と題した記念講演を行う◆「読売新聞」に作家稲葉真弓がエッセイ五回を連載、寺山修司に続く最終回で「異界へ私を連れてゆく─『西川徹郎全句集』(10月15日付「読売新聞」)」を発表した◆櫻井琢巳著『世界詩としての俳句─西川徹郎論』(沖積舎)が「ちゅうせき叢書27」として再刊。
■2006(平成18)年59歳
◆東京・神田アソシエ21ホールで開催された「アソシエ21学術思想講座」で同講座の講師で「神奈川大学評論」の創刊以来の専門編集委員・文芸評論家小林孝吉が西川徹郎の10代の日の俳句作品を「世界文学」と称んで「世界文学としての俳句西川徹郎」と題して講演◆9月10日地元芦別市で開催された第30回道民芸術祭並びに第38回空知管内郷土芸術祭(会場・芦別福祉センター大ホール)で「俳聖松尾芭蕉とわが実存俳句」と題して講演した◆満堂の聴衆の中には高校時代の数年間、書簡により添削指導を受けた初学の師とも呼ぶベき細谷源二門随一の俳人で名句集『白い堆積』の著者砂川市在住の星野一郎の姿が在った。講演を終え演台を下りた徹郎は、ただちに直進して師の手を握りしめ胸を抱いた◆8月25日『銀河系通信』(A5判・730頁建、黎明舎/茜屋書店)第19号発行。本号よりに判型をA5判へ変え、誌名も「銀河系通信」と改名した。特集Ⅰ「世界文学としての俳句」、特集Ⅱ「寺山修司とは誰か」、特集Ⅲ「小笠原賢二『極北の詩精神』」、特集Ⅳ「孤高の詩人櫻井琢巳」、特集Ⅴ「修羅の日本文学史」、特集Ⅵ「漂泊の詩人高橋紀子」、特集Ⅶ「現代俳句の異星三十四俳人」を組む◆特集Ⅱ「寺山修司とは誰か」で西川徹郎の講演録を含め寺山修司論5本を発表、特集Ⅵ「漂泊の詩人高橋紀子」では「永遠の漂泊者─高橋紀子論」を発表した◆西川徹郎誌上句集「銀河小學校自選2000句」、追悼川上春雄、全国諸紙誌に掲載された諸家の西川徹郎論等を収録した◆第3回銀河系俳句大賞(主催・黎明舎、選考人西川徹郎)を発表し、沖縄県在住の俳人で文芸評論家平敷武蕉の評論集『文学批評は成り立つか─沖縄・批評と思想の現在』(2005年、ボーダーインク)に決定し、授与することを誌上発表した◆10月24日付「東京新聞」夕刊に宗田安正の俳句月評「西川徹郎と俳句形式」が掲載され、同文が全国諸紙に掲載された。
■2007(平成19)年60歳
◆1月西川徹郎文學館開館記念出版『決定版 無灯艦隊─10代作品集』(沖積舎、5000部)刊行◆吉本隆明が帯に推薦文「少年のころ破調の俳句に没入し、その破調はとうとう永続数十年にして、珍しいほどゆたかな呼吸の出し入れの音に変貌した。今も歩いているのだ。吉本隆明」を寄稿、斎藤冬海が解説30枚を書いた◆5月26日道内外の西川文学の支持者や読者300名の力に依り、少年期より憬れの北都旭川市中心地の旭川市役所庁舎と旭川グランドホテル(現・「星野リゾート・ホテルOMO7」)前の7条緑道に西川徹郎文學館が開館(18年より正式名称を「西川徹郎記念文學館」と改名)◆5月27日開館前夜、旭川グランドホテル2階孔雀の間に於いて西川徹郎文學館開館記念祝賀会が吉本隆明・梅原猛・森村誠一・大島渚・角川春樹・立松和平・有馬朗人・蓮清典・松本健一・稲葉真弓・馬場駿吉・久保観堂・平敷武蕉・三井あき子・長沢徹・斎藤豊・西川宗一等、西川徹郎と交友の深い著名作家・文化人78名が発起人となって開催された。旭川市長西川将人・道議会議員三井あき子が祝辞を述べ、続いて芦別市在住の道議会議員長沢徹が芦別市民を代表し力強く祝杯の音頭を挙げた◆「東京新聞」9月28日付に名古屋ボストン美術館館長で名古屋市立大学名誉教授馬場駿吉が「世界文学の最先端に立つ詩─西川徹郎文學館を訪ねて」を発表した◆「東京新聞」10月24日付に宗田安正が西川文学を伝え「西川徹郎と俳句形式」と題した時評を発表した◆総合誌『現代詩手帖』(思潮社)11月号に日本詩壇の代表作家で宮澤賢治研究の第一人者、明治学院大学名誉教授 天沢退二郎が書評「『無灯艦隊』について」を発表◆『抒情文芸』(抒情文芸刊行会)第1112号にエッセイ「新城峠」を寄稿した。
■2008(平成20)年61歳
◆『日英対訳 21世紀俳句の時空』(現代俳句協会篇/永田書房)に日本俳壇の代表作家の一人として日英対訳の3句とプロフィールが収録される◆8月20日付「朝日新聞」「北のことば抄」に芥川賞作家加藤幸子の『決定版 無灯艦隊─10代作品集』の2句鑑賞のエッセイが掲載される。
■2009(平成21)年62歳
◆5月23日来館した国民的作家森村誠一の講題「西川文学と人生」と題した来旭来館記念講演会並びに来館記念市民歓迎会を開催。森村誠一は西川徹郎の実存俳句を、松尾芭蕉の〈蕉句〉に比肩して語り、〈西川凄句〉と命名した◆特別ゲストの作曲家・東京音楽大学教授池辺晋一郎(2018年日本の文化功労者)は、西川徹郎の10代の日の「首の無い暮景を咀嚼している少年」(『決定版 無灯艦隊─十代作品集』所収)等の作品を評し、「シュルレアリスムの絵画のような、というふうに僕は思ってうかがってました。他の俳句もそうですね。西川先生の俳句は、文學や絵画・音楽などの藝術を超えています」(2010年森村誠一著『永遠の青春性─西川徹郎の世界』所収)と語った。館内は森村誠一と池辺晋一郎ファンや市民で溢れた◆日本大学名誉教授笠原伸夫著『銀河と地獄─西川徹郎論』(西川徹郎文學館新書①/茜屋書店)刊行。笠原は西川徹郎独自の〈反定型の定型詩〉論を讃え、「現代俳句のアヴァンギャルド」「西川徹郎は異形の天才である。西川徹郎の方法は原則、俳句形式への断絶と連続という背理的な形での自負につらぬかれている。一言でいえば反俳句の俳句─反伝統の伝統である」と述べた◆6月第45回龍谷教学会議全国大会(会場・龍谷大学)で「眞實之利と大無量寿経」と題し研究発表を行う◆11月30日総合誌「俳句界」(文學の森)の編集顧問大井恒行が写真家赤羽真也と共に来旭来館した。同誌の企画編集「西川徹郎特集」の為の「独占インタビュー」やグラビア等の撮影の為だった。翌朝斎藤冬海と共に薄く冠雪した新城峠を案内し、又エッセイ集『無灯艦隊ノート』でも書かれた「仙台山」の丘陵を案内した◆大井恒行はかつて10代後期から20代前期に徹郎が、赤尾兜子の「渦」の同人として活躍した頃の姿を知る幾人かの中の一人であり、大井はその後、徹郎が攝津幸彦・宮入聖・大井恒行等と共に現代俳句の気鋭の同人集団「豈」創刊へと進んだ状況を識る数少ない「豈」創刊同人の一人だった。
■2010(平成22)年63歳
◆1月森村誠一の講演録『永遠の青春性─西川徹郎の世界』(西川徹郎文學館新書②茜屋書店)を刊行。前年5月の来旭来館記念講演「西川文学と人生」に基づき、書名を「永遠の青春性」とし、西川徹郎の自選句集『わが黄金伝説』(300句)を併載し刊行◆後記に森村誠一は「西川俳句は、日本の文学遺産として凄絶な発光をする宝石である。西川文学の栄光は、凄まじい衝撃を読者に射ち込むことにある。生死の境界を超えた永遠の絶唱であることが、西川徹郎の人生の凝縮と実存である」等と書く◆本書を読んだ東北大学名誉教授・日本哲学会会長・哲学者野家啓一は、5月16日付「読売新聞」に「寺山修司の『田園に死す』の再来」等と書く◆総合誌『俳句界』(文學の森)2月号で特集「極北孤高の異色俳人西川徹郎」が企画刊行。代表作品30句や写真家赤羽真也撮影の生地新城峠や肖像写真、編集顧問として来館した大井恒行に依る「独占インタビュー」、西川徹郎論二篇等の同総合誌初の本格特集となり、全国的反響を呼び、版元では在庫品切れとなった◆10月20日文芸評論家小林孝吉著『銀河の光 修羅の闇─西川徹郎の俳句宇宙』(西川徹郎文學館新書③/茜屋書店)刊行。小林は同著で「西川徹郎は、ついにダンテやドストエフスキー、日本では宮澤賢治や埴谷雄高などごく少数のものしか到りえない、生の惨劇の究極の地点=魂の高い峠に立ったのだ。そこには〈絶対の救済〉=〈銀河の光〉が満ち溢れている……」と書く◆10月30日西川徹郎作家生活五十年記念出版『西川徹郎青春歌集─10代作品集』(西川徹郎文學館編/茜屋書店)が少年期に書かれた幾十冊に及ぶ「創作ノート」に書き遺されていた「青春短歌」を採集し刊行◆同書の解説「少女ポラリス」一100枚を学藝員・作家の斎藤冬海が書く◆本歌集を読んだ森村誠一は、徹郎の句を〈凄句〉と称ぶことに因み、短歌を〈凄歌〉と名付け、「生死を超えた永遠の絶唱」と絶賛し、「啄木に並ぶ、或いは啄木を越える秀歌」(2018年「西川徹郎研究」第一集所収)と評した◆相模女子大学名誉教授・八重洲学園大学客員教授 志村有弘は「『西川徹郎青春歌集─十代作品集』を読んだとき、胸に押し寄せる青春の痛みと哀感に、私は不覚にも涙を流した。─中略─私は西川徹郎という繊細で至純な魂を持つ文学者に、一種痛みのようなものを感じたのも事実である」(2012年・鼎書房、志村有弘著『忘れ得ぬ北海道の作家と文学』所収)と述べ、更に書簡で「日本の近現代に詠まれた青春の詩歌の中で稀にみる絶唱」と賞讃した◆文学座テアトル・エコー等で舞台の演出等を手がけ、『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』等を翻訳した演出家・翻訳家である酒井洋子は、「与謝野晶子を超えた純愛詩」と絶賛した。
■2011(平成23)年64歳
◆この年刊行された『詩歌作者事典』(監修・志村有弘/鼎書房)人名篇には杜甫・李白・李賀・白楽天・王日休・杜順・聖徳太子・紀貫之・紫式部・芭蕉・西行等、中国・日本三千年間の代表詩人(詩歌作者)等と共に詳細な西川徹郎伝が収載される◆「大法輪」6月号(大法輪閣)に「わが文学と親鸞─聖と俗の峡谷、その一筋の道を行く」発表◆6月28日龍谷教学会議全国大会(会場・龍谷大学)で「「行文類」一乗海釈の淵源─『教文類』の憬興師『述文賛』の存在理由」と題し研究発表◆7月2日西川徹郎作家生活50年並びに西川徹郎文學館開館五周年祝賀記念会(旭川グランドホテル)開催◆同会場で第1回西川徹郎文學館賞を角川春樹一行詩集『白鳥忌』に授賞。角川春樹は新婚の妻★連れ、角川春樹事務所の一行を引き連れて出席、森村誠一夫妻・松本健一・★★★旭川市長西川将人等が臨席した◆『わが心の妙好人』(勉誠出版/監修・相模女子大学名誉教授志村有弘)に「妙好人について─夕えの念佛者たち」を寄稿◆かつて一九九四年七月下旬本山西本願寺の常例布教を拝命し六日間二四席の布教を終え、続いて出講したのが、滋賀県米原市磯の琵琶湖の邉の古刹上妙寺の別修永代経法座だった。徹真はその折、上妙寺住職より江戸末期に上妙寺で聞法を重ねた妙好人椋田與市の存在を知らされた。徹真は本書『わが心の妙好人』に椋田與市の人生と言葉から見えて来た念仏に生きる妙好人與市の真の姿を書いた◆『わが心の妙好人』には〈現代の妙好人〉の一人に徹郎が挙げられ、斎藤冬海が「漆黒の峠を越えて─詩聖西川徹郎伝序章」を寄稿したが、全ては本書の版元勉誠出版の企画編集上で為された事柄である◆徹真はこの年の盂蘭盆会を終えた8月下旬より10月下旬の2カ月間不休で「弥陀久遠義の研究」1000枚を執筆、その中の600余枚を本願寺司教請求論文として本願寺総局へ提出した。同論文で親鸞滅後750年間未解明だった『教行信証』「教文類」引文の新羅の憬興師『述文賛』五徳瑞現釈と「行文類」一乗海釈の跨節の関係性を解明、「教文類」の『述文賛』引文の根拠と理由を初めて論証した。又同論文で親鸞聖人750回大遠忌法要記念出版『親鸞聖人聖教全書一』(本願寺出版社)の『教行信証』(本願寺派聖典編纂委員会編)の訳出と表記の誤りを指摘した◆10月『菱川善夫著作集』第九巻「千年の射程─現代文学論」(菱川善夫著作集刊行委員会/沖積舎)に菱川善夫の西川徹郎論「わが「無灯艦隊」論─『西川徹郎全句集』による解読と批評」が収載される◆10月31日本願寺派勧学山田行雄和上が正信寺に初めて出講。報恩講大逮夜法要に「いさみの念仏」と題して二席講演した◆12月25日『弥陀久遠義の研究』(黎明叢書①茜屋書店)刊行。志村有弘編著『金子みすゞ み仏への祈り』(勉誠出版)に志村有弘執筆の西川徹郎論「西川徹郎の夭折が収録された。
■2012(平成24)年65歳
◆2月7日斎藤冬海を伴って上京、相模女子大学名誉教授・評論家志村有弘、鼎書房社主加曽利達孝と赤坂(主婦会館)で一夜会談。志村有弘は『往生伝研究序説─説話文学の一側面』(1976年・桜楓社)等の著者で相模女子大学名誉教授・八重洲学園大学客員教授を務める説話文学や近代文学研究の第一人者だった◆翌日徹郎は冬海と共に少年歌人源実朝を偲び鎌倉を散策、「ぞっとするほど綺麗な妻と歩く鎌倉」「鎌倉が冬海冬海と呼ばれたり」等の句を書く◆2月総合誌『俳句界』(文學の森)2月号に「角川春樹一行詩集『白鳥忌』遠望─天才詩人角川春樹」を寄稿/前年の年末に刊行した『弥陀久遠義の研究』は、現代俳句作家で且つ真宗学者の『教行信証』研究の学術論文として文学界をはじめ他ジャンルへ様々な反響を及ぼした◆6月2日付「図書新聞」に吉本隆明研究の勝れた評論家久保隆は「親鸞が切開した浄土理念の通路へとさらに誘われていく」と題した書評を発表◆7月21日付「図書新聞」の特集「上半期の3冊」では宮澤賢治研究の第一人者・詩人天沢退二郎が『弥陀久遠義の研究』を上半期の収穫筆頭に挙げ、「傑れた俳句作者でもある著者による親鸞の原テクストの研究。私の如き門外漢にも、例えば或るキーワードの真意を丹念に追求するくだりなど、よくわかり、実に面白い」と称讃した◆9月19日角川春樹が代表を務める日本一行詩協会主催第5回日本一行詩大賞受賞式(会場・千代田区九段、アルカディア市ヶ谷)に招かれて出席、主催者代表の角川春樹や来賓の作家森村誠一や同河村季里等と再会した。評論家太田昌国ともこの会場で初めて対面した◆受賞式終了後、3階レストランで森村誠一と会談した。徹郎は「人間の実存的な痛苦や悲哀は、その人の生の全体性を覆う夢や幻想や幻覚・幻視といった領域に至って初めて本物と云えるのではないか。だから私は新しい句集のタイトルに「幻想詩篇」という4文字を加えようと考えている」と語った◆その時、徹郎の話に耳を傾けていた森村誠一は「私の知人に戦争で負傷して片足を喪った人が居る。その人がある時、私にこう話してくれた。『足を失ってもう何十年も経つのに時々その足が痛くて痛くて眠れない時がある。無いはずの足が疼いて、その痛みでどうしても朝まで眠れない夜があるのです』と。この幻の足の痛みの話は、今の西川さんの話と全く同じですね」と応えた。徹郎はこの森村誠一との会談を第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(2013年6月10日・茜屋書店)の後記『白い渚を行く旅人』の中で引用し、「森村誠一が語る切り落とされた足から幾年経ってもけして消えることのない痛みや疼き、その後も幻の痛み疼きとなって全身を襲うように、夢や幻視的超現実的イメージとして出現した私の俳句文学は、私の身体に浸透してしまった生の悲哀と実存的な痛苦の表象である」と書いた◆8月20日『新視点・徹底追跡 方丈記と鴨長明』(歴史と文学の会編・勉誠出版)に「念仏者鴨長明─不請阿弥陀仏論」を発表した。『方丈記』成立後800年間未解明だった『方丈記』研究の最大の難題「不請阿弥陀仏」を解明した。『方丈記』には鴨長明の明記はない。奥書に「桑門ノ蓮胤」とある。長明は、法然の弟子大原如蓮上人(日野長親)を心友(藤原定家『名月記』)とする。『方丈記』奥書に記述された念仏者鴨長明の「桑門ノ蓮胤」(註、桑門とは僧門の事、蓮胤は長明が尊重する『池亭記』や『日本往生極楽記』の著者慶滋保胤に因む長明自身の僧名)としての鴨長明の真の姿を徹郎は『方丈記』研究史上初めて明らかとした◆6月28日二九日第四七回龍谷教学会議全国大会(会場・龍谷大学)で「『行文類』一乗海釋の淵源─『教文類』の憬興師『述文讃』の存在理由」と題し研究発表◆8月31日『金子みすゞ 愛と願い』(勉誠出版)に徹郎の衝撃的論文「金子みすゞのダイイングメッセージ─遺稿詩集の「あさがほ」「学校」の詩その他を巡る考察」を発表した◆西川徹郎は肉眼ではなく常に詩人の〈心眼〉で書を読む。みすゞの「手書き遺稿詩集」の詩作品の中に密かに織り込まれた詩人西條八十へ寄せたラストメッセージを解読し、永年不明とされてきた金子みすゞの自死の原因が徹郎の本論文に由り、没後82年にして初めて突き止められた◆本書には別に、徹郎がみすゞへ「みすゞよ泣くな」と語りかける徹郎製作の「銀の馬車に乗って─『金子みすゞ童謡全集』と『西川徹郎全句集』その他より」と題した童謡詩人金子みすゞと俳句の詩人西川徹郎の二人の詩人による大正と平成、80年の時空を隔てた愛のデュエット、コラボレーションが収載されている◆同書には金子みすゞを題材にした作家斎藤冬海の書き下ろし小説「少女きりぎりす」も掲載される。刊行後、全国のみすゞファンから多数の反響が峠の寺に届いた◆10月20日西川徹郎文學館館内を会場として麗澤大学教授・内閣官房参与の文芸評論家松本健一の講演会「世界文学とは何か─西川徹郎の俳句について」を開催。翌朝、徹郎と斎藤冬海は、美瑛町在住の文學館図書編集室スタッフの植物学者戸島あかねに道案内役を依頼し、3人で徹郎の自家用車で初雪のかかった大雪山系の山道を越え、松本健一を十勝岳火山砂防情報センターと十勝岳登山口へと案内した◆この年小説家倉阪鬼一郎著『怖い俳句』(幻冬舎新書)が刊行される。同書に「西川徹郎13句」と著者の論評が収録される。
■2013(平成25)年66歳
◆1月11日森村誠一より『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』解説の初校が事務所宛に届く。ゲラと別に森村誠一の私信、「西川徹郎様ご夫妻 凄句、未知の可能性を探究してますます展開、鬼気をおぼえるほどです。文芸の発する鬼気は、憤りを越えた無限宇宙の発する呼気のような気がします。発刊が楽しみです。2013年1月10日 森村誠一」という直筆ペン書きの私信が添えてあった◆『口語俳句年鑑』(口語俳句協会)巻頭言「新興俳句の詩精神は死なない─世界文学としての俳句の源泉」を発表した◆総合誌『短歌往来』(ながらみ書房)に新作「桔梗駅」10句寄稿◆この年、総合誌「詩歌句」(北溟社/編集・発行人小島哲夫)の俳壇選者に就任◆6月書下ろし9017句収録の第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(西川徹郎文學館叢書Ⅲ・茜屋書店)を刊行。巻末には森村誠一による解説「無限の夢を追う狩人」と吉本隆明の既発表2編の西川徹郎論を西川文学の資料的解説として収録した◆本書は日本各界の表現者へ衝撃を与え、中国・北京社会科学院名誉教授で世界比較文学者千葉宣一は「世界文学史の奇跡! 発熱し発狂しそうになる。俳のエクスタシーにふるえます」、1000枚書き下ろし評論『暮色の定型─西川徹郎論』(沖積舎)の著者で文芸評論家高橋愁は「これは文学史上の大事件!〈怪物〉は本物だった」、現代俳句協会顧問で俳壇の長老伊丹三樹彦は「九千句書き下ろし、驚きました。西鶴もタジタジだ」と賞讃した◆西川徹郎は本著で発表句数21,000を超え、江戸期の小林一茶や近代の種田山頭火を越え、日本文学史上、最多発表作家となる◆この年刊行された『北海道文学事典』(監修・志村有弘/勉誠出版)人名編に作家倉本聰・同渡辺淳一等と共に詳細な経歴が収載される◆別に同事典の執筆者として人名編11項目を担当寄稿。斎藤冬海は総論「アイヌの文学と作家」と人名編14項目を担当執筆◆9月7日東京・四谷麹町の「スクワール麹町」で菅直人内閣で官房参与を務めた麗澤大学教授・文芸評論家の松本健一氏の著書『思想伝』(人間と歴史社)出版記念集会が開催され、その集会に招かれて上京、四谷麹町駅近くの会場へ出向いた。松本健一は会場の玄関先で徹郎を待ち構え、徹郎の顔を見るやいきなり「今日、僕について講演して呉れ」と云った。出版記念集会は発起人代表仙谷由人(政治家・弁護士・菅直人内閣幹事長)の開会挨拶から始まり、西川徹郎はNHK解説委員大島春行、セブン銀行会長安斎隆、作家関川夏央、ジャーナリスト田原総一朗に続く五人目で登壇、「革命評論家松本健一」と題し小講演を行った。降壇後は多数のマスコミ関係者に囲まれ、質問攻めに遇った。
■2014(平成26)年67歳
◆1月東京・四谷「スクワール麹町」で前年9月7日ジャーナリスト田原総一朗等と共に行った講演を収録した「松本健一著『思想伝』出版記念集会記録」(人間と歴史社)が届く◆3月「宮沢賢治学会」会報(花巻市立宮沢賢治イーハトーブ館発行)第48号に巻頭論文「妹としの聲無き絶唱─『春と修羅』「永訣の朝」の「あめゆじゆ」とは何か」を発表◆賢治没後81年にして定説「雨雪」説を翻し「死に行く妹としの末期の絶唱がこの詩の本質なのだ。「あめゆじゆ」とはアミダの原語「アミタユス(無量寿)」であり、死にゆく者を見護る側ではなく、死にゆく妹としの末期の聲無き聲、無聲の絶唱が「あめゆじゆ」なのだ」とする画期的新説を発表。以降、全国の賢治ファンからの驚嘆の反響や問合せが続いた◆5月31日西川徹郎作家生活五十年記念事業実行委員会による「西川徹郎・森村誠一〈青春の緑道〉記念文學碑」が北都旭川の中心地旭川市役所庁舎前の公道7条緑道西川徹郎文學館通に建立される/日高山脈を流れ下る日本随一の急流沙流川から採取された緑青の日高青石原石(背高3メートル)に森村誠一が西川徹郎を称んだ「永遠の狩人 森村誠一」の自筆筆跡が徹郎十代の日の短歌や句と共に刻印された◆同日午前10時森村誠一と旭川市長西川将人、北海道議会議員三井あき子、書道家久保観堂、正信寺門徒代表横川博ほかが来賓として臨席、道内外の詩人・文化人・市民等100余名が参集して除幕式が行われる◆午後1時西川徹郎文學館館内を会場に新城峠大學開校式に続き、第1回新城峠大學文藝講座が特別講師森村誠一による講題「小説の神髄─小説はなぜ書くのか、そして如何に書くか」が開講された。館内は3階テラスや文學館前の公道七条緑道にまで詰めかけた学生や市民の聴衆で溢れた◆夕刻5時近隣の旭川グランドホテルに於て新城峠大學開校記念祝賀会並びに西川徹郎・森村誠一〈青春の緑道〉記念文學碑建立記念祝賀会並びに第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』出版記念会を開催した。ノートルダム清心女子大学教授綾目広治、「神奈川大学評論」編集委員小林孝吉、書道家久保観堂等、道内外から170名の文化人や市民が出席、西川徹郎は挨拶を兼ねた講演「独立者として」を行った◆この年、作家森村誠一と日本文藝家協会理事関川夏央の二人の推挙を受け、日本文藝家協会新会員となった◆9月二九日第十四句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(A5判・八百頁建、茜屋書店)が、日本の詩歌界の最高賞の一つ日本一行詩協会主催(後援・読売新聞社/角川春樹事務所)の第七回日本一行詩大賞特別賞を受賞した◆詩壇のスーパースター故清水昶と同時受賞(選考委員は角川春樹事務所社長・日本一行詩協会会長・一行詩詩人角川春樹、神奈川県立近代文学館館長兼理事長・作家辻原登他)した◆受賞式会場に来賓として森村誠一、河村季里、遠藤若狭男、北溟社社主小島哲夫、評論家久保隆等、多数の関係者が臨席した。遠藤若狭男や久保隆とは初対面だった◆西川徹郎は演台に立って自身の名付けた「実存俳句」とは一九七四年刊行の第一句集『無灯艦隊』の名の如く、俳句革命を希求する〈現在戦場〉の名であり、その〈無灯艦隊〉の艦上に〈日本一行詩大賞〉という輝く旗を掲げたと本賞の選考委員角川春樹や辻原登等の選考委員等へ謝辞を述べた。◆角川春樹は、角川書店創業者である俳人角川源義を父とし、日本全国に名の轟く伝統俳句の旗手、西川徹郎は前衛の旗手であり、この度の授賞は、伝統の旗手が前衛革新の旗手を顕彰したことになる◆9月9日付「毎日新聞」はそれを伝え、「受賞作は9017句を収録した超現実的幻想的な作風で、14作目の句集。西川さんは「前衛の旗手と言われてきた自分が、伝統的俳句の旗手として意識してきた角川春樹さんが中心となっている賞をいただけるのは本当に感慨深く、うれしい。50年やってきた自分の仕事が全部報われた気持ちがする」と喜ぶ」と報道した◆9月29日東京・千代田区九段北のアルカディア市ヶ谷(私学会館)で開催された受賞式に徹郎は斎藤冬海を伴って出席。その日が徹郎の67回目の誕生日であることがアナウンスされると二百名に至らんとする多数のマスコミ・来賓・一行詩協会会員等出席者から一斉に歓声と拍手が湧き起った◆「河」9月号「日本一行詩大賞特集」へ受賞の辞「第7回日本一行詩大賞特別賞を受賞して」を寄稿した◆2000年『西川徹郎全句集』刊行より第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』上梓に至る迄の10年間は、まさに天駈ける阿修羅の飛翔の如く熾烈な日夜だった。徹郎は『全句集』刊行後の僅か一年6ヶ月で5091句を書き下ろし、第13句集『銀河小學校』(A5判・630頁建、沖積舎)を上梓した。更に『銀河小學校』刊行後、2年6ヶ月で15,000句を書き下ろし、その中から9017句を収載したのが第7回日本一行詩大賞を受賞した第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(A5判・806頁建、茜屋書店)◆第13句集『銀河小學校』5,000句書き下ろしに続く第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』の脱稿と上梓は、自身の生死を賭けた格闘の奇跡だった◆宮沢賢治学会顧問で日本詩壇の第一人者天沢退二郎は、2014年12月21日付「図書新聞」特集「下半期の3冊」で『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』を挙げ、「西川氏の句集は、質量共に圧倒的ヴォリューム。特に繰返しを恐れず句作の連打が読む者にきびしくせまる」と述べた。
■2015(平成27)年68歳
◆3月15日『修羅と永遠─西川徹郎論集成』(西川徹郎文學館叢書③/A5判・1,200頁建、茜屋書店茜屋書店)刊行。吉本隆明・森村誠一・野家啓一・立松和平・池辺晋一郎・私市保彦・有馬朗人等73名・125篇の西川徹郎論の集成。資料篇に西川徹郎の主要論文&エッセイ&自選作品。帯文は東北大学名誉教授・哲学者 野家啓一。装画・多賀新。西川徹郎の作家生活半世紀の期間に全国の諸紙誌に発表された西川徹郎に関する作家論・書評・時評・批評・エッセイ・鑑賞・紹介等は長短含め500編に及ぶ。本書はその大量の西川論の中から日本各界の代表作家に依る総125篇の西川徹郎論を編纂収録した◆4月2日付「東京新聞」に森村誠一は自身の来歴を語るエッセイ「この道」の中で影響を受けた作家として「俳句は松尾芭蕉、角川春樹、西川徹郎、短歌は辺見じゅんと与謝野晶子」と述べる◆同月作家加賀乙彦より『永遠の都』全7巻の寄贈を受ける。加賀乙彦は編に及ぶ。本書はその大量の西川論の中から日本各界の代表作家に依る総125篇の西川徹郎論を編纂収録した◆4月2日付「東京新聞」に森村誠一は自身の来歴を語るエッセイ「この道」の中で影響を受けた作家として「俳句は松尾芭蕉、角川春樹、西川徹郎、短歌は辺見じゅんと与謝野晶子」と述べる◆同月作家加賀乙彦より『永遠の都』全7巻の寄贈を受ける。加賀乙彦は『永遠の都』で藝術選奨文部大臣賞を受賞。日本の文化功労者。日本芸術院会員。北海道を舞台にした小説に『湿原』がある◆5月23日付「図書新聞」に評伝作家で宮沢賢治研究者として知られる澤村修治は、西川徹郎の十代の日の青春短歌『西川徹郎青春歌集─十代作品集』をも含めた上で半世紀に及ぶ西川文学を絶賛し、「西川徹郎文学は日本の戦後文学の異形峰として聳えている」と評した◆詩人・英文学者 愛知大学大学院教授伊藤勳は、6月12日付「週刊 読書人」に「反定型の定型詩」と題した『修羅と永遠─西川徹郎論集成』の書評を発表、西川徹郎の〈反定型の定型詩〉論や〈聲無き聲〉論を評し「現世という「地獄」にあって、言葉になり得ない魂の聲を敢えて言葉にしようとした時、五・七・五を逸脱した」と述べた◆6月18日札幌組佛教婦人連盟研修会(会場・本願寺派札幌別院)で「攝取不捨の本願と『方丈記』鴨長明」と題し、真宗史の謎の解明に挑む講演を行う。札幌組副組長を務める真照寺副住職松本昇陽師の推挙に依る出講だった。会場は数百名を超える仏教婦人会役員で溢れた◆徹真はその講演の中で1207(承元元)年の念仏停止(ちょうじ)の事件に由り師法然と共に流罪に遭った親鸞聖人が、1211(建暦元)年急遽、法然上人と共に放免された理由は何か。その理由は真宗史の謎の一つでその経緯も未解明である。徹真はその謎を解明する為に鎌倉幕府の公的史書『吾妻鏡』の中の鴨長明に関わる記述や長明が鎌倉幕府3大将軍源実朝に拝謁し、その後源家の法花堂の柱に自筆で揮毫した和歌の解読や長明の代表的著作『発心集』の記述に依拠して真宗史の謎を解明せんとする講演を行った◆仏文学者で作家鈴木創士は2015年7月18日付「図書新聞」の特集「上半期の3冊」で第14句集『幻想詩編 天使の悪夢九千句』を挙げ、その理由として「永遠の少年詩人による遠い秘密の惨劇に似た風景」と述べ、「17文字の世界から発する閃光が一瞬にして見せしめる」と記述した◆12月本願寺派本山西本願寺より辞令を受けた徹真は、北海道教区胆振組の苫小牧・登別・室蘭等の本願寺派の14カ寺を巡回布教した◆その中でも北海道随一の仏教学者橋本昭道師が住職を務める室蘭市輪西の光昭寺で2日間4席の布教は忘れられない。橋本昭道は北海道大学大学院インド哲学科で仏教学を修め、真宗大谷派講師藤田宏達の直弟となった。仏教学者橋本昭道師の存在は、北海道教区の一条の光明である◆又室蘭市御前水町願隆寺で同寺住職を務める水口大縁師は龍谷大学大学院で岡亮二教授に就いて真宗学を修めた真宗学者だが、水口大縁と交わした法縁のひとときも忘れられない◆水口大縁師は徹真の布教二席を門徒の最前列に座して聴聞し、徹真の布教中も常時念仏を称えておられた◆「我等は罪悪深重にして煩悩具足の凡夫なれば、如来に背を向けたる仏法の逃亡者なり。三界を流転しつつ逃げ惑う我等凡夫悪人をこそアミダ如来は、〈任せよ必ず救う〉と召喚したもう。如来は我等が為にこそ尽十方世界へ向けて光明の投網(とあみ)を打ち放って下されて、我等凡夫悪人罪人をこそ洩らさず如来の光網の中にとらえ入れしめ、我等をして臨終の一念に到るまで如来の光明の中に住む身とならしめたもう」という光明攝取、現生正定聚の布教讃歎を水口大縁は、徹真の口元から迸る一句一言一聲も洩らすことなく聞きとどめていたのである◆布教後、水口大縁は講師控室で徹真にこう尋ねた。「わたしは今日初めてあなたのご法話を聴きました。今日までわたしは随分長く沢山の先生方の講話や法話を聴いてきましたが、こんな有り難い、素晴らしい法話を聴いたのは、初めてです。本当に驚きました。あなたのお説法は、聴いているうちに、不思議なことに自分でも知らぬうちにいつの間にか口からお念仏が出てくる。こんな有り難い説法は、私は本当に今まで聴いたことがない。あなたは一体、何処でどのようにお聖教を学び、そして何処でどなたから真宗の教えを学んだ方なのですか。そしてあなたは、普段、どのような書物を読み、どのような研鑽をしておられるのですか」と◆本堂での布教が終わったばかりの徹真の後ろを追うように控室に入ってきたその寺の老齢の住職水口大縁の質問に、徹真は丁寧に法衣をたたみ、差し出された一服の御茶をいただきながらこう答えた◆「私は若い時に龍谷大学を自主退学しています。その為にどなたかの先生に直接付いて学んだことは一度もありません。退学後私は現在迄、新城峠の寺に在って、唯一人で独学でお聖教を学んでおります。但し大江淳誠和上が綜理をお務めだった頃の安居に、三十代のほぼ十年間続けて懸席し、「論題会読」の席に出ております」◆「その外には私に特段学歴というべきものはありません。ですから私は日々の生活の全てが私に与えられた教学と聞法の道場であり、私は私に与えられた私の人生の総べてが聞法と教学研鑽の為の道場の一日一夜であり、私の人生の中の様々な出来事の一切悉くが、私に与えられた聞法の道場の中の出来事と考え、その一切悉くが私は私に対する如来さまよりの御催促と試練であると頂き、今日迄如来さまの御法と伴に過ごして参りました」◆「読む物は真宗学を学ぶ者としては当然ながら三経・七祖、それに御本典『教行信証』を始めとした親鸞聖人や蓮如上人の聖教です」「その上で真宗学は所謂、末註と呼ばれる江戸期の学匠等の講説を纏めた『真宗叢書』『真宗全書』正続、更に大谷派の江戸期の教学を纏めた『真宗大系』正続や浄土宗の『浄土宗全書』正続等、合わせれば二百巻を優に超えるでしょうか。先哲の遺したこれらの御法の寳蔵の扉を開かねばなりません。私はその中でも特に空華学派僧鎔の『本典一滞録』や東陽圓月の遺したお言葉等を殊更注意して戴くようにしています」「その外では釈迦一代経の根本経典『華厳経』や『涅槃経』、それに『維摩経』や『勝鬘経』等です。『華厳経』の註釈書である賢首菩薩法蔵の『華厳経探玄記』二十巻や聖徳太子のお書きになられた「三経義疏」の『勝鬘経義疏』や『維摩経義疏』等は私の座右の書で何時も枕辺に置き、休む前に拝読しています」◆水口大縁の問いに対しこう答えた時、水口大縁は更に「それでは伺いますが、『維摩経』にはどのような法義が説かれていますか。又『維摩経義疏』に太子はどのような義釈を為しているのですか」と訊ねられた。その問いに応え、徹真はこう述べたという◆「『維摩経』という経典は、我が国へ大変早い時期に伝わった経典です。つぶ具さな経名は『維摩詰所説経』です。このぐ具めい名は仏陀の弟子で病を得た在家の菩薩維摩詰を見舞う文殊菩薩との問答で構成された「問疾品」がこの経の中心であり、そこに大乗仏教の根本義が示されていることを顕示しています◆病を得た毘耶離大城の維摩詰を見舞うように仏陀より命ぜられた文殊菩薩は、多数の仏弟子や大衆を引き連れ、横臥した維摩詰を見舞います。「何故、あなたは病を得、横臥しておられるのですか」という文殊の問いに対し維摩詰は、「一切衆生病むを以て是の故に我病む。若し一切衆生の病滅すれば、則ち我が病滅せん」「譬えば長者に唯一子有り。其の子、病を得れば父母も亦病み、若し子の病癒えなば、父母も癒ゆるが如し。菩薩も是くの如し。諸の衆生に於て之を愛すること子の如し。衆生病まば則ち菩薩も病み、衆生の病癒えなば、菩薩も亦癒ゆ。又是の疾、何の所因より起こると言わば、菩薩の病は大悲を以て起こるなり」と答えます。これはつまり維摩詰は「人々の病や苦しみはその儘がこの私の悩み苦しみである」と答えたのです」◆『華厳経探玄記』は『華厳経』のみならず、大乗仏教全体の指南書の一つでもありますが、賢首菩薩は「同体大悲」と言っています。子の悩み苦しみはその儘親の悩み苦しみであることと同じく、大乗仏教の根本義をこの「同体ノ大悲」という言葉で語っています」と答えた時、水口大縁は更にこう問いを続けた。「それでは伺いますが、『維摩経義疏』で太子はそれをどの様に解釈しておられるのですか」と。徹真は愈々嬉々として水口大縁にこう答えたという◆「浄土真宗の根本経典『大無量寿経』を日本で最初に、誰よりも先に釈を為したのは、実は聖徳太子です。『維摩経義疏』の仏国品釈を開くと「無量寿経に云く」と大経の経名を挙げた上で、大経の本願抑止文「唯除五逆誹謗正法」の真意を釈顕しています。それは大経が説くミダの本願の救済が「五逆謗法」の悪機をこそ対象としたものであることを顕すと共に『維摩経』の「一切衆生病むを以て是の故に我病む」の「病む衆生」とは実に大経抑止文「五逆謗法」の悪機のことであると指摘したことを意味します。つまり太子は大経が説くミダの本願の深意を以て『維摩経』問疾品の経意を釈顕し、同時に『維摩経』問疾品の「同体大悲」を以て大経抑止文の底意を顕開し、この二経を合せ鏡の如くして大乗仏教の根本義「如来大悲」を顕示したのです」「親鸞聖人は太子の「三経義疏」を読み、太子への尊敬の念を愈々深められたことでありましょう。『涅槃経』のいち一せん闡だい提(編者註・仏性無き者、無信の者)も含めた末法の世の五逆謗法の悪機を洩らさず救う大乗仏教の至極の法を其処に見たのです」◆此所まで一気に語った徹真は、ふっと時が既にいっとき経ったことに気付き、部屋の窓をふり返った。その時、太平洋を間近に望む広大な室蘭の港湾の全面が既に薄く茜を混じえ薄墨色に日が暮れかかっていたことに気付いたという。これが徹真が時折ふり返って語る、北の地の真宗学者水口大縁との忘れ得ぬ法縁のひとときの出来事である。
■2016(平成28)年69歳
◆1月角川書店発行『短歌年鑑』(平成28年版)特集「短歌の詩情とは何か」に、現代俳句側から西川徹郎が「〈詩〉とは何か─聲無き聲と十七文字の世界藝術」を寄稿。現代詩側からは詩壇の長老清水哲男が寄稿した◆4月23日「西川徹郎文學館主催〈青春の緑道〉春の夕の市民集会」(旭川トーヨーホテル)で館長・學藝員斎藤冬海が「日本文学史を照らす念仏者の心─徹郎・長明・実朝」と題し講演。斎藤冬海は、平安・鎌倉の代表的な文人で『方丈記』や『発心集』の著者として知られる鴨長明や鎌倉3代将軍で『金槐和歌集』の著者で歌人の源実朝の短歌や随筆と西川徹郎の文学に通底する大乗佛教の慈悲の思想について語り、多数の文學館関係者や市民が〈青春の緑道西川徹郎文學館通の春の夕〉の文学の一時を堪能した◆講演後、館主西川徹郎と館長斎藤冬海がカメラの前に並んで記者会見し、第3回西川徹郎文學館賞の選考結果を横浜市在住の文藝評論家小林孝吉著『内村鑑三 私は一基督者である』(御茶の水書房)に贈ることに決定したとの発表を行った◆その授賞理由を西川徹郎は次の通り述べた。「内村鑑三という日本近代が生んだ偉大な宗教者の評伝だが、内村鑑三と真正面から対峙した著者が内村鑑三の内部世界の苦悩を見事に描き出し、苦悩が人間を救済し、人間の苦悩や酷痛が人類の灯となる様相を描き出したのが本書である。「人は苦悩を如何に越えるか」という人生の根源的な主題を正面から問う本書は、一宗教者の人生を対象とする評伝でありながら一宗教の個別的蓋然性を超越して人間存在の普遍的な根源的意味を開示している。本書は〈文学〉の普遍性と永遠性を追求する西川徹郎文學館の対象作家西川徹郎の〈17文字の世界文学〉の理念と通底している。日本文壇の真の実力が世界の文学界へ問う正しき「世界文学」の一冊が本書である。」◆4月24日付「北海道新聞」は「受賞作はキリスト教思想家内村鑑三の評伝であり、西川館主は〈内村鑑三の内部世界の苦悩を見事に描き出し、苦悩が人間を救済し、人間の苦悩や酷痛が人類の灯となる様相を描き出した〉と選考理由を述べた」「授賞式は今秋行う」「同賞は日本文学の振興に寄与した作品と作家に不定期に贈られる」「今回の選考委員は西川館主と斎藤冬海館長の2氏が務めた」と報道した◆5月10日本願寺派札幌別院を会場に札幌組仏教婦人会幹部研修会が開催された。西川徹真が講師として出講し、真宗史800年の未解明問題の一つといわれる「承元(ジョウゲン)の法難に由って流罪となった法然上人と親鸞聖人は、1212年に何故、放免となったか。」この真宗史の謎の解明にいどむ講演を行った。開場は二百名を超える聴衆で満員だった。札幌組という北海道教区全体の中で最も大きい組の婦人会幹部研修会というこの場に、西川徹真を講師として推薦しかつ迎えてくれたのは、札幌組の真照寺副住職で札幌組副組長を務めていた松本昇陽氏である◆徹真は、真宗史800年の未解明の謎に迫るべく長明の名著『発心集』や鎌倉幕府の公式記録といわれる『吾妻鏡』の記述の中の和歌にかくされた意味の解明を行い、法然・親鸞の二人の救出の為に働いた念仏者鴨の長明の「釋蓮胤」としての実の姿を克明に語った◆6月26日午後4時芦別市青少年センター体育館を会場に芦別市出身のプロレスラー若松市政(新日本プロレス元所属、将軍KY・ワカマツ)が主催する「どさんこプロレスIN芦別」大会が開催された◆徹郎は試合終了後、未だ激闘の熱気冷めやらぬリングへ上がってマイクを握った。「あっあれは、作家の西川徹郎だ!」と叫ぶ観衆や、「西川徹郎は遂にプロレスへ転向したか」等と呟くリングサイドの観衆の声でざわめく中、徹郎は会場全体に鳴り響く檄の第一声を放った。それは、永年の声明と説法で鍛えた声だった◆「皆さん! 私は、作家の西川徹郎です。皆さんは、観たか! 今日の大会は、プロレスラー若松市政が炭鉱閉山後の芦別の復興とこの町の青少年育成の促進を願って、独力で只一人で起ち上げた大会だ! プロレスとは、打ちのめされ、倒されて、〈もうダメだ!〉と絶体絶命となったそのどん底から起ち上がり、相手に立ち向かって行く格闘技なのだ。私たち市民の一人一人がこのように起ち上がって、この閉塞した町を皆の力で文明と文化輝く都市へと変えて行こうではないか! 私が発声するから皆一緒に〈若松ガンバレ!〉と声を挙げてくれ!」◆徹郎の音頭に呼応した体育館一杯の青少年や観衆が、一斉に右手の拳を高く突き上げ、声を出した。会場の全体が揺れ動き、大きな波となった◆この夜のプロレス会場のリング上での演説は、青少年や児童のいじめに由る自殺が多発する世相を背景とした西川徹郎の一地方都市に於ける作家・宗教人としての青少年育成活動の一端でしかないが、暫く芦別市民の熱い話題を提供することとなった。
■2017(平成29)年70歳
◆7月8日午後一時西川徹郎記念文學館館内を会場にした講師小林孝吉に依る新城峠大學第2回文藝講演会並びに第3回西川徹郎文學館賞受賞記念講演会を開催した。講題は「青春と文学─西川徹郎と内村鑑三」、小林孝吉は「内村鑑三と西川徹郎、両者共に世界に通ずる宗教家で文学者であり、共に苦悩が存在の深淵を照らすことを伝えている」と話し出した◆午後5時より近隣の旭川トーヨーホテルを会場に西川徹郎文學館開館10周年祝賀記念会並びに『修羅と永遠─西川徹郎論集成』刊行記念祝賀会並びに第3回西川徹郎文學館賞授賞式を開催。旭川市副市長岡田政勝、旭川市教育長赤岡昌弘、北海道議会議員三井あき子、歌人今川美幸、詩人東浦道子、川柳作家櫻川博康、芦別文化連盟会長須藤大硯、口語俳句作家澤田吐詩男等を始め、道や市内外の作家や文化人、関係者や市民100名が出席した◆9月18日会津若松市で自宅療養中だった斎藤冬海の実父齋藤豊が行年89で往生の素懐を遂げた。齋藤豊は会津若松市の市役所に勤め、永年、市の収入役を務めた。仮に江戸期ならば「会津藩の家老」とも呼ばれる立場だったが、奇しくも豊の没したこの日は、1868(慶応4)年戊辰戦争に於る会津若松城落城の日でもあった◆齋藤豊は1929年会津若松市に生まれ、会津若松市役所に勤務、総務部長を経て会津若松市収入役を務めた。豊は東北の古都と喩えられる会津若松市の近代都市への復興に生涯尽力した。若き日の詩人・評論家川上春雄は、会津若松市役所での同僚だった。豊は文筆家としても活躍、「福島民報」「福島民友」等にエッセイを連載した。主著に『アヒルの行列』(茜屋書店)がある。徹真にとり豊は義父なれども遺言に従い9月22、23日、会津若松市内の大会場に於ける通夜と葬儀の導師を務めた◆通夜の読経後、徹真は、我が子長女を北海道の峠の寺に嫁がせ、長女に敢えて茨の峻路を歩かせしめ、我が娘がその寺の坊守となり、女性布教使となるや、自らも妻道子と共に念仏者となった。更に我が娘が本願寺派では東京以北、女性僧侶として唯一人の学階輔教を授与された真宗学専攻者と知るや更に歴史上初の女性僧侶の司教を目指すべく我が娘を激励した。徹真は通夜の席で豊のその功労を讃え、一席の布教讃歎を行った◆その夜の徹真の布教は、会津若松市民がかつて未だ聞いたことのないという『涅槃経』や『浄土和讃』に説かれる「一子地仏性」の説法だった。その夜の会葬者で徹真の口から迸る如来大悲の御法を聴いて瞼から雨降る涙を拭わぬ者は一人たりと居なかったという。徹真のこの夜の説法は会津若松市の歴史的出来事の一つとして市民町民の間で今も語り継がれている◆12月総合誌「俳句界」(文學の森)12月号の特集「平成俳句検証」の「あなたが選ぶ、平成を代表する句と俳人」のアンケートに作家森村誠一は、『幻想詩篇天使の悪夢九千句』所収の一句「夏草や無人の浜の捨人形 西川徹郎」を挙げ、更に平成を代表する俳人に「西川徹郎」を挙げた。その理由として森村誠一は「自分の精神とシンクロナイズしてきます」「生死の境界を超えた永遠の絶唱」と答えた。
■2018(平成30)年71歳
◆1月西川徹郎文學館の正式名称を「西川徹郎記念文學館」(略称、「西川徹郎文學館」)と改名◆2月総合誌「俳句界」2月号に巻頭作品「永遠の旅人」21句を寄稿◆5月本年度開館以来、西川徹郎や西川徹郎記念文學館の活動を支持して来た西川徹郎文學顕彰委員会(本部・芦別市)や文学館建立関係者有志の会や文學館近隣の店主等で構成する協力者の会等の任意の会を発展的に解消し、新たに「西川徹郎記念文學館 詩と表現者と市民の会」を創設して一本化し、新城峠大學文藝講座等の開催に協力して頂くボランティアの市民の会として同会を結成した◆代表・西川徹郎、副代表・館長斎藤冬海、副代表・口語俳句作家澤田吐詩男、会計・美術家曽我部芳子、監査・演劇家脇慎一郎/筆頭顧問 作家森村誠一、顧問 日本藝術院会員・作家加賀乙彦、日本文化功労者・東京音楽大学教授池辺晋一郎、日本哲学会元会長・東北大学名誉教授・哲学者野家啓一、角川春樹事務所社長・映画監督・一行詩人角川春樹、東京大学元総長・元文部大臣・俳人有馬朗人、日本比較文学学会元会長・武蔵大学名誉教授私市保彦、名古屋市立大学名誉教授・名古屋ボストン美術館館長馬場駿吉、「神奈川大学評論」編集委員・文芸評論家小林孝吉、ノートルダム清心女子大学教授・文芸評論家綾目広治、メディチ文化協会正会員・アルバ・ガッタ・ローマ芸術家協会名誉会員・書道家久保観堂、北海道議会議員三井あき子等、西川徹郎との交友や西川文学に関わる文学者や文化人が名を連ねている◆7月〈詩・歌・句・美〉の共同誌「鹿首」(長野県諏訪市、鹿首発行所)12号に巻頭作品「永遠の旅人─湖底の町にて」50句寄稿。同誌は編集人研生英午を中心とした詩歌や俳句や評論、写真や美術等の藝術家集団による共同誌。研生英午はかつて『星月の惨劇─西川徹郎の世界』に評論「空の谺─実存俳句の行方」を寄稿した傑れた日本文学の論者。本誌編集に於ても高く強靱な精神性に貫かれた誌面を創出している◆6月「仏教家庭学校」(編集兼発行人・小端香芳/教育新潮社)に徹真の「念と聲とはひとつこころなり─乃至十念は名号の独用」を寄稿。同誌は盆用施本として全国の寺院より所属門徒へ配布され、多数の門信徒が読む法話誌◆山形県天童市の善行寺住職北畠典生(龍谷大学元学長)から私信が届く。「貴殿の法話は本当に有り難いです。拝読しながら私も何時の間にか知らないうちにお念仏を称えておりました」と書かれていた◆7月学術研究誌『西川徹郎研究』(西川徹郎記念文學館編・茜屋書店)創刊第一集刊行。巻頭に作家森村誠一の『西川徹郎研究』創刊を祝した1篇「永遠の青春」と日本藝術員会員の作家加賀乙彦の西川徹郎へ寄せた「わが友に告ぐ」を掲載、新城峠大學文藝講座第一回の作家森村誠一の講演「小説の神髄─小説は何故書くのか、そして如何に書くか」と第3回西川徹郎文學館賞受賞記念講演を兼ねた新城峠大學文藝講座第2回の小林孝吉の講演「青春と文学─西川徹郎と内村鑑三」を収録した。哲学者野家啓一の評論「死の影の下に─『西川徹郎青春歌集─十代作品集』を読む」や文芸評論家綾目広治の「恋心の純粋持続─『西川徹郎青春歌集─十代作品集』」、日本比較文学会元会長私市保彦の評論「賢治の胎内から躍り出た怒りの修羅─西川徹郎と宮澤賢治の世界」、斎藤冬海の「西川徹郎と宮澤賢治─『春と修羅「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉を巡って』や西川徹真の論文「妙好人小林一茶と浄土真宗」や立松和平「行者の言葉─西川徹郎小論」の転載、更に梅原猛・志村有弘・原子朗・平岡敏夫・研生英午・中園倫等の論文や書簡からの転載が収載される。巻末に館長・學藝員斎藤冬海が「黄金海峡Ⅰ「西川徹郎研究」後記」を書く◆8月24日付「週刊 読書人」と9月15日付「図書新聞」は『西川徹郎研究』の創刊を詳細に報道◆8月29日付「プレス空知」(赤平支局長野村博/空知新聞社)は『西川徹郎研究』創刊と西川徹郎記念文學館の新城峠大學無料講演会等の社会教育活動に協力する市民のボランティアの会「西川徹郎記念文學館 詩と表現者と市民の会」の結成を伝えた◆8月14日付「あさひかわ新聞」(主幹工藤稔/北のまち新聞社)と総合誌『北海道経済』九月号は「北海道文学史初の研究学術誌の創刊」を大きく報道した◆8月「熊野、魂の系譜Ⅱ」という副題が付いた谷口智行の論集『熊野概論』(書肆アルス)が届く。
花吹雪観る土中の父も身を起こし
の一句が収載されていた◆4月25日大阪府立大学名誉教授金子務より書簡と新著『科学と宗教─対立と融和のゆくえ』(監修・金子務/日本科学協会編、中央公論新社)が届く◆6月11日日本哲学会元会長で東北大学名誉教授野家啓一の新著『はざまの哲学』(青土社)が届く。この二書は共に現代日本の科学と哲学の最先端の知性と学識の書である。金子務監修『科学と宗教─対立と融和のゆくえ』では妙好人を世界へ紹介した哲学者鈴木大拙が、又野家啓一著『はざまの哲学』では詩人宮澤賢治が採り上げられる。この2人(鈴木大拙と宮澤賢治)の詩と哲学に内在するものが〈東北大震災後の日本の進路を示唆する何か〉であることを読者へ語り掛けている◆『はざまの哲学』の著者野家啓一が東北大震災の直接的被災者であったことを徹郎は本書所収の論文「東北の地から」で初めて知った◆『はざまの哲学』は形而上学的真理の探究を地上の〈狭間〉の地点に立って思索した現代日本の哲学界の第一人者野家啓一の新刊であり、最新の哲学論考である。
■1947(昭和22)年東雲の出生より2018(平成30)年極月の今日現在に到る迄の「17文字の銀河系─西川徹郎=西川徹真 年譜」は、新城峠という山峡の大自然を出身地として戦後日本の宗教界と文学界を跨いで活動の舞台とした一人の念仏者一人の詩人が、その宗教と文学の狭間のひとすじの隘路を行く〈永遠の旅人〉の影である◆2002年6月「大法輪」(大法輪閣)6月号に徹郎は論文「わが文学と親鸞─聖と俗の峡谷、その一筋の道を行く」を書いた◆「その一筋の道」とはまさに聖と俗の狭間、科学と宗教の狭間、相と無相の狭間、数と無数の狭間、我と非我の狭間、私と非私の狭間、日常と非日常の狭間、思議と不思議の狭間、現実と非現実の狭間、定型と反定型の狭間、哲学と文学の狭間、韻文と散文の狭間、聲と無聲の狭間、西欧哲学と佛教哲理の狭間、それは大陸と孤島の狭間の海峡を錚々と流れゆく世界三大波濤日本海の留萌の黄金岬や増毛郡大別苅の冬の日の峻烈なる波瀾の海流の相(すがた)にも似て、新城峠の峡谷の中の隘路を激しく荒ぶ白魔と共に駆け抜けて行く羽ばたく阿修羅の翼の如きものの影である◆とまれ極北の山峡大雪山系を遙かに北に望む夕張山地の北端に切り立つ新城峠の頂に激しく棚引く阿修羅の旗こそは、筆者が此所迄書き記してきた戦後日本に出現した聳える異形峰、阿修羅の詩人西川徹郎の凄絶なる非望の文学〈17文字の世界藝術〉の異称なのである。
尚、本略年譜に於ては「徹郎」と「徹真」の名を適宜使い分けた。文中敬称を略します。
註・本略年譜は、ノートルダム清心女子大学名誉教授・文芸評論家綾目広治著『惨劇のファンタジー西川徹郎17文字の世界藝術』(西川徹郎研究叢書1、2019年1月20日茜屋書店)資料篇収載の「17文字の銀河系―西川徹郎=西川徹真略年譜」斎藤冬海編より転載し、かつ多少の加筆を行った。綾目広治氏へ謹んで感謝を申し上げます。
西川徹郎記念文學館 館長・學藝員 斎藤冬海
(2023(令和5)年7月2日)
病みたまふ君
君が死の夢を見し日に裏山の藤の花のみ散り初めにけり
君が頬日の出づるかに染まりけり月は菜の花畑より出づ
十三のかの朝焼けは君と見き今は枯木のもとに来て見ゆ
病みたまふ頬の青さは海よりもなを深くして冬来たりけり
看護婦に声振るわせて君を訊く病舎の窓の湖(うみ)の青さよ
裏山に行きて死なむと思ふとき海へ行かむと云ひしを思ふ
昨日も今日も葦の花散る野に出(いで)てさめざめ泣けり月出(いづ)る迄
君がためひとり蒼ざめ裏山に来て月見草摘みし夜半かな
鬼灯(ほおずき)を鳴らし合ひつつ野を行きしいとけなき日を誰に語らむ
別れなる朝
君が頬の横には遠きエルムケップ連山のあり別れなる朝
別れなる朝に贈りしわが庭の花はかの花君影の花
君が家
君が家見むとて丘を登りつつ撫子摘めば腕に溢れぬ
秋風に荒家と化せし君が家夜毎に犬の遠吠える家
旅行く日
北風の船尾に立てば白鳥(しらとり)の群れこそ砕け散りゆく夕べ
青森の海の暮れゆくむなしさよ仰げば鳥の未だに飛べり
白鷺の城のごとくにあるゆえに秋草に寝て君を思はむ
盆太鼓
盆太鼓打つは恋知る若者にて哀しき音に鳴れるものかな
盆太鼓若者が打つは哀しくて胸の奥にも遠く聞こへり
秋の町
野分する公園の芝を駈けゆくは白き犬なり悲しきものなり
秋近き神社の森で拾ひたる白き電球を点けてみるかな
啄木の哀しみをもて飯食へば流るる涙の冷たくもあり
茸生えし草履下げては遠雷の夕べうなだれさまよひて来し
連山の凍り横たふそのもとに溶鉱炉静かに火を吐きてをり
月寒町よ
月寒の町に住むてふ病む君を一目見んとて急ぎ来しかも
初恋の人住むと云ふ月寒町に来は来つれども坂道続く
わが後を片目の犬が追(つい)て来ぬ月寒町の冬の坂道
冬来れば月寒町の裏通り哀しき歌を唄ひ歩めり
冬日暮れ月寒町の空のもと鴉など飛び我らさまよふ
冬日暮れ犬のさまよふ影が我が影に重なり坂を登れり
たそがれは見知らぬ町をさまよひてたどりつきたる冬の停車場
馬鈴薯の花
大いなる瞳を持てる君こそは雨の中なる馬鈴薯の花
啄木の恋の歌よりわが詠ふ歌哀しけれ馬鈴薯の花
桐の葉
裏山に桐の青葉のさやぐなりわが青春を育みし家
桐の葉に頬を埋めて初恋の後の傷みに堪ふるものかな
秋風
少年の淋しく揚ぐる凧の如き恋初めし日の秋風のわれ
死後我は盲魚と化すにあるらむと友に語る日秋風の吹く
青森の海のやふなるものが瞳(め)に漂ふことを友に語らむ
灯を慕ふごとくに君を慕ひをり虫の性(さが)かも魚の性かも
朝焼の人知れずして消ゆるごと君ひそかにも去りゆきにけり
エレムケップ連山に秋来たりけり眼を細むれば君を思へば
江別哀歌
石狩の北のはずれの町に来て君ら泣きたる冬のたそがれ
わが唄ふ江別哀歌の声細し夕べは君ら啜り泣くより
石狩の岸辺の町に哀歌聞く飢えつつ我らさまよひゆけば
淋しければ一番町のとある家我に灯ともす冬のたそがれ
雪國の小さき駅なる窓に頭(づ)を傾げて立てば涙流るる
宿命
わが胸に黒き小旗の烈風に靡くが如く心荒れをり
わが耳の裡(うら)にも銀河寒々と続くを思ひ口笛を吹く
犬橇の柩のなかに凝固せる己(おの)が額に雪の積れり
瞼閉づれど開けど冥さは同じなり夜病みたまふひとを思ふに
病むひとを思ひ夜空を仰ぐなり行く雲もなく飛ぶ鳥もなく
鳥辺野
無惨にも恋に破れて鳥辺野にさめざめ泣きに来し大工かも
鳥辺野に恋に破れて泣きに来し大工の紺の瞳を思ふ
清水
清水の塔に涙(さし)ぐみ君が名を櫻明かりにくちずさみけり
泣き濡れし君が手をとり清水の坂を下るや赤き日の暮れ
旅人
三日月の微光に濡れし君が頬半跏思惟の君なりしかな
嵐山黒き瞳にかなしみのひとすじ残る君なりしかな
剃刀研人
星の出に剃刀研人(かみそりとぎ)は月見草摘み摘み深き裏山行けり
裏山を剃刀研人は月見草しみじみ散るを見つつ急げり
星の出の名も無き山にしみじみと剃刀研人は月見草摘む
月見草生命(いのち)の如くはらはらと散りつつ我を悲しますかな
口笛
まっ青な夜空があれば口笛を北上夜曲吹き鳴らすかな
口笛吹けばいつしか哀歌となりにけり我には病むる人のありけり
蜉蝣
はらはらと草蜉蝣は野より野へはつかに消えし人の如くに
蜉蝣の薄きいのちを思ひつつ遠き野寺の鐘聴いてゐる
賀茂川
病む鴨の波に乗りつつ鳴くに似て君泣くは悲し酒を啜らむ
涙(さし)ぐみし瞳に浮ぶ賀茂川の水の色など美しかりき
遙かなる比叡の鐘を数へつつ人の恋しき夜となりにけり
四条橋君と渡れば三日月の東山より出(い)で初めにけり
春の夜の星数えつつ四条橋をみな子待ちし我を憐れむ
君がため涙流るる賀茂川の岸の菫(すみれ)は星屑なりき
春の傘
春の傘差してはるばる来つれども歌舞練場の朝のさみしさ
故なくに夕べ涙ぐみ春雨の歌舞練場の灯るを見たり
君が瞳
賀茂川の水の如くに君が瞳(め)の透きとほりつつ夜来たりけり
賀茂川の水を眺めて涙(さし)ぐみし君が瞳は水より暗し
秋の風
秋の風君が肩より南座の旗赤々と見え初めにけり
東山暮れゆきにけり秋風に南座の旗飜る見ゆ
東山下りて来れば秋風の南座の旗あかあかと見ゆ
賀茂川へ幻の君を連れあるく夕陽に映える南座の旗
京に来て淡き恋知る子となりし我を憐れみ秋の風吹く
泣きながら四条橋にて別れ来し君が名を呼ぶ浜千鳥かな
暗き星
君と来て東寺の塔の尖端のひときわ暗き星を見てゐる
祇園よさらば
はるばる来れば祇園は涙に濡れてゐる君は何処よ君は何処よ
春夕べ祇園横丁酔ひゆけばギタァを弾ける君が窓見ゆ
春雨に濡れて急げば舞姫の赤き袖さえ悲しかりけり
仄暗き傘の内より春雨に濡れし乙女の赤き袖見ゆ
如月の祇園に紺の雪降れり夕べ淋しく君を思ふに
祇園町花の匂ひをして雪の降り初むみれば涙流るる
泣き濡れし君がか細き指にこそ祇園の雪は散りかかりけり
君が胸に小雨降るなりわが胸に雪の降るなり祇園よさらば
アザリヤの花
アザリヤの花に童は涙(さし)ぐみぬ父の名を呼び母の名を呼び
夕な夕なアザリヤの花散りにけり愛しきひとは如何にあるらん
野花
紫の野花の茎を噛みにけり初こひびとは病みたまひつつ
花摘みに行きて帰らぬをみなごを思へば青き星出でにけり
君に逢はずて死なむと思ひ裏山行けば藤蕾みをり生きんと思ふ
幻の花
月の出を待つが如くに君を待つ君影の花匂ふ喫茶店
わが前に幻として君は在り幻の花匂ふ喫茶店
麗しくなりぬと君に囁きぬ珈琲の香に咽び初むれば
白藤の花が匂ふと囁かば頷きたまふ君なりしかな
君が髪梳けばさやけき藤の香の町に匂ふとわれ囁きぬ
君に逢ひ別れて来れば白藤の匂ひの髪に滲みてありけり
白藤の匂ひさやけき北の町別れて悲しき唄くちずさむ
裏山に藤の花咲く春来れば再び君に逢はむと思ふ
月見草野に咲く如く我もまた一人野に出て君を思はむ
月見草咲く野に出(い)でてひと思ふこの淋しさを誰に語らむ
何処となく笛の音聞こゆ初恋のひと吹くらむか花蔭にして
朝な朝な裏山藤の花散れり慕ひつついざ死なむと思ふ
君が瞳(め)は海の流れてゐるごとく澄めりと云へば笑みたまひけり
生きよと如く河岸(かし)に真青き蓬生え死ねよと如く水流れけり
生きよと如く月のぼりけり河岸に来て真青き蓬摘んでゐるかな
草笛を涙に濡れて吹きにけり淡きおもひの胸に滲む日
己(おの)が病む如くに君は病みゐたり川は夜空を流れてゐたり
我は病みても君を忘れず君を恋はばまなうらに咲く幻の花
春の雪
春の雪花の如くに降る朝の狸小路にひとと別れぬ
春の雪花の如くにわがひとの髪にかかるはなやましきかな
君と逢ひ別れし町に花の散る如くに春の雪は降るかな
君がため
君がためただ君がため海に来てかもめの月に飜る見ゆ
君がためただ君がため月光に濡れて渚を歩み来しかな
君がため裏山行けり裏山に君好きたまふ秋草咲くに
君がため花摘みに来し裏山を星の光に濡れて下れる
藤咲けば
藤咲けば君の咲くやに思はるる思ひ出の山に一人登る日
東のかなた
陸橋に登りて東のかなた見ゆ東に君の住む町あれば
月の出
初恋の傷みに堪へて月の出を見てゐる大きな月出(い)でたれば
月の出を見てゐて瞼濡れにけり初こひびとは病みたまふらん
君が名をくちずさむ時幻の琴の音聞こゆ月の出の頃
青森
雪の日の胸の傷みに堪へかねて死なむと津軽海峡に来し
青森のをみなの呉れし青林檎食らひて海を渡りけるかな
月草の花
君に逢ひしその日海よりも轟くはわが胸に咲く月草の花
砂山に君と腹這ひ沖見れば白き破船の沈むこそ見ゆ
撫子
摘み摘みて胸に溢るる撫子を君に捧げむと来し野道かな
撫子の花が好きよと云ひしゆえ撫子摘みに野に出(い)でて来ぬ
日暮れまで野に居て君の香水の匂ひの花を捜してをりぬ
幻の花の香りが流れ来て君を思ひて名をくちずさむ
泣き濡れて浜撫子を摘みにけり病みても君を思ひけるかな
撫子を摘み摘み君は泣き濡れて夜空の星の如き涙す
君がためひとり撫子摘みをれば故なく涙流れ初めけり
ヒヤシンス
ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはつかに星の瞬くに似て
ヒヤシンス夜空の星を映すかに心の庭に咲くは淋しき
ほの淡きヒヤシンスかな君が頬朝焼けいろに染まりしを見ゆ
北國の朝焼けいろの君が頬幼き君の遠き日のこと
汝(な)が瞳心の庭のヒヤシンス薄紫に咲けば悲しも
わが庭の薄紫のヒヤシンス君を思へば散り初めにけり
十三の君を忘れずヒヤシンスはつかに春の雪降る夕(ゆうべ)
汝(な)が頬はヒヤシンスよりやや薄く青ざめてゐる雪降ってゐる
波の音
わが胸に海の流れてゐるごとし恋はば胸より海鳥の発つ
わが胸に海流れをり君を恋はば胸より遠き波の音(ね)聞こゆ
淡雪
しらしらと朝降る雪を映すかに白かりしかの君が頬かな
てのひらにのりてはかなく淡雪は解け初むや君の命が如く
煙草吸ふとき冷たき涙流れけり北の都に病める人あり
君が文
君と見し海へ行かむと汽車にあり十三の日の君が文かな
君が声
北國の冬の終はりの夕空に響くが如き君が声かな
歯磨き粉の匂ひ
初恋の君と別れて来し日より歯磨き粉の匂ひして雪降ってゐる
歯磨き粉の匂ひして雪降ってゐる学校帰りの君の幻
歯磨き粉の匂ひして雪の降る朝(あした)君の幻美しきかな
シクラメン
シクラメンの花房見れば初恋の人去る如くさみしかりけり
花摘み
花摘みに来は来つれども花あらず出(い)で初めし星を摘みて帰りぬ
君が名
君が名を荒磯(ありそ)の岩が上に立ち汽笛の如く沖へ叫べり
君が名を星の出近き浜に出て流れ木に寄りて沖へ叫べり
初恋の傷み残れる君が名を荒磯の砂に書き遺しけり
砂に書く君が名消しゆく秋の波幾たび君が名を書きしかな
砂浜の砂に遺せし君が名は波に消されて幾秋経たむ
君が名を口ずさみつつ磯に来て真青き草を摘み渉るかな
君が名を千ほど砂に書きゐしが思ひはつきず月草を摘む
エルム
たそがれはエルムの山の淋しさに涙ぐみつつ君を思へり
郭公鳥
君へ文書きつつをれば夜は明けぬ郭公鳥など鳴き初めにけり
空知川
空知川の岸辺の町に君住むやそこはかとなき水の青さよ
平岸と云ふ空知の川の町に住む君を思へば雪降り初めぬ
雪に埋もれし空知川こそ悲しけれ飛ぶ鳥もなく釣る人もなく
空知川雪に埋もれて飛ぶ鳥もなければわが胸の如く淋しき
雪國
雪國に雪降る如くわが胸に君が涙の降りしきるかな
雪國に雪降る如くわが胸に君が面影棲むは淋しき
『西川徹郎青春歌集─十代作品集』(西川徹郎文學館叢書第1集/茜屋書店)は、2010(平成22)年西川徹郎作家生活50年を記念し文學館叢書第一集として刊行された西川徹郎の十代の日の短歌作品集。本集の「歯磨き粉の匂ひして雪降っている」は同歌集よりの抄出した170首である。同歌集には解説として斎藤冬海の「少女ポラリス」100枚が収載されている。
第1句集『無灯艦隊』(1974年)
不眠症に落葉が魚になっている
夜明け沖よりボクサーの鼓動村を走る
海峡がてのひらに充ち髪梳く青年
流氷の夜鐘ほど父を突きにけり
京都の橋は肋骨よりも反り返る
晩鐘はわが慟哭に消されけり
首の無い暮景を咀嚼している少年
蝙蝠傘がふる妙に明るい村の尖塔
月夜轢死者ひたひた蝶が降っている
剃った頭に遙かな塔が映っている
癌の隣家の猫美しい秋である
秋は白い館を蝶が食べはじめ
無人の浜の捨人形のように 独身
男根担ぎ佛壇峠越えにけり
黒い峠ありわが花嫁は剃刀咥え
骨透くほどの馬に跨り 青い旅
暗い地方の立ち寝の馬は脚から氷る
馬の瞳の中の遠火事を消しに行く
『定本 無灯艦隊』(1986年・冬青社)
海女が沖より引きずり上げる無灯艦隊
無数の蝶に食べられている渚町
『決定版 無灯艦隊─十代作品集』(2007年・沖積舎)
こんなきれいな傘をはじめてみた祇園
群れを離れた鶴の泪が雪となる
屠鶏の流す泪は一番星である
剃刀が木星を忘れられずにいる
屠馬の視線と出会う氷の街外れ
屠馬は七夜一睡もせず星数え
第2句集『瞳孔祭』(1980年・南方社)
樹上に鬼 歯が泣き濡れる小学校
ねむれぬから隣家の馬をなぐりに行く
父の陰茎の霊柩車に泣きながら乗る
父はなみだのらんぷの船でながれている
瞳孔という駅揺れる葉あれは
妻よはつなつ輪切りレモンのように自転車
蝶降りしきるステンドグラスの隣家恐し
遠野市というひとすじの静脈を過ぎる
楢の葉雪のように積もる日出てゆく妻
第3句集『家族の肖像』(1984年・沖積舎)
食器持って集まれ脳髄の白い木
葉にまみれ葉がまみれいもうとはだか
浴室にまで付きまとう五月の葬儀人
鳥に食いちぎられる喉青葉の詩人
祭あと毛がわあわあと山に
家族晩秋毛の生えたマネキンも混じり
家中月の足あと桔梗さらわれて
四、五日で家食い荒らす蓮の花
まひるの浜の浜ひるがおの溺死体
自転車に絡まる海藻暗い生誕
倉庫の死体ときどき眼開く晩秋は
揺れる芒はおびただしい死馬か山上
畳めくれば氷河うねっているよ父さん
鳥がばたばたと飛ぶ棺のなか町のよう
猛犬である下駄箱は町を映し
第4句集『死亡の塔』(1986年・海風社)
雪降る庭に昨夜の父が立っている
少しずつピアノが腐爛春の家
校葬のおとうと銀河が床下に
おとうとを探して野原兄はかみそり
おとうとを野原の郵便局へ届ける
おとうとを巻きとる蓮の葉は月夜
かげろうが背を刺し抜いて行った寺町
股開き乗る自転車みんな墓地に居て
父と蓮との夜の手足を折り畳む
母も蓮華も少し出血して空に
空の裂け目に母棲む赤い着物着て
顔裂けて浜昼顔となるよ姉さん
紺のすみれは死者の手姉さんだめよ
姉は浜なす海は戸口に立っている
尖塔のなかの死螢を掃いて下さい
戸に刺さった蝶は速達暗い朝
なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん
第5句集『町は白緑』(1988年・沖積舎)
遠い駅から届いた死体町は白緑
ふらふらと草食べている父は山霧
二階まで迷路は続く春の家
球根も死児もさまよう春の家
みんみん蝉であった村びと水鏡
秋津が秋の日の野の人を鷲掴む
滝というあばれる白馬が山中に
棺より逃走して来た父を叱るなり
藻にまみれた校塔仰ぐ少し荒れる日
石に打たれて母さんねむれ夜の浜
竹原に父祖千人が戦ぎおり
抽斗へ銀河落ち込む音立てて
床屋で魔羅を見せられ浦という鏡
階段で四、五日迷う春の寺
庭先を五年走っているマネキン
萩の間へ続く萩野を背負われて行く
第6句集『桔梗祭』(1988年・冬青社)
首締めてと桔梗が手紙書いている
妹を捜しに狂院の夏祭
遥かな萩野萩が千本行き倒れ
第7句集『月光學校』(未刊、2000年『西川徹郎全句集』所収・沖積舎)
月夜の谷が谷間の寺のなかに在る
おだまきのように肢絡みあう月の学校
花吹雪観る土中の父も身を起こし
剃刀を振り振り青葉が小学校へ
佛壇のなかを通って月山へ
マネキンも姉も縊死して萩月夜
寺屋根に引っ掛かっている白いマネキン
暗く裂けた鏡隣家の蓮池は
嵐の旅立ちゆえ妻抱くおだまきのように
天に瀧があって轟く父亡き日
池に沈んだ汽車青蓮となりつつあり
第8句集『月山山系』(1992年・書肆茜屋)
抽斗の中の月山山系へ行きて帰らず
月夜ゆえ秋津轟き眠られず
白髪の姉を秋降る雪と思い込む
第9句集『天女と修羅』(1997年・沖積舎)
婆数人空ヲ飛ブナリ春ノ寺
雲雀ガ雲雀ヲ啄ム空ハ血ニマミレ
顔裂ケタ地蔵モロトモ山畑売ラレ
未ダ眼ガ見エテ月ノ麦刈リシテイタリ
日本海ヲ行ッタリ来タリ風ノ夜叉
秋ノクレタスケテクレト書イテアル
第10句集『わが植物領』(1999年・沖積舎)
夢竟る馬が義足を踏み鳴らし
紋白蝶ト夜叉ガユラユラト飛ンデイル
夜叉ノ口モ比叡ノ谿モ裂ケテイル
第11句集『月夜の遠足』(2000年・書肆茜屋)
玄関で倒れた兄は冬の峯
雪虫も螢も兄の死顔かな
兄さんに降り注ぐ螢も薄羽かげろうも
ふらふらと遠足に出て行く死後の兄
月夜の遠出未だ熱がある死者の足
第12句集『東雲抄』(未刊、2000年『西川徹郎全句集』所収・沖積舎)
立小便する父葬花を担いだ儘
月の破船時計がボーンと鳴っている
烏よりも大きな蝶が浜町に
たすけてくれぇたすけてくれぇと冬木たち
椿墜ち百千の馬車駆け出さん
「藝術とは死との関係である」天上裏
墓は永遠に裸である 氷雨
犬から解けた繃帯が街の外れまで
佛身は青野時々瞬くは
走らねば蜻蛉に食われてしまう弟よ
父さんと一緒に死んでゆくさなだむし
山寺で死なないためにたたかう空の鯉
第13句集『銀河小學校』(2003年・沖積舎)
小學校の階段銀河が瀧のよう
廊下に映る銀河夜まで立たされて
筆入にカミソリ銀河を隠し持つ
井戸に落ちた弟と仰ぐ天の川
銀河が喉に溢れる虫籠のキリギリス
北枕初夜を銀河が身を反らす
夢魔が来て夜な夜な掴む木の葉髪
洋服箪笥に銀河が懸かる兄の家
絶叫しつつ散る兄亡き家の山茶花
惨劇という名の月夜茸が生え
キリギリスの羽脈に透る銀河系
鉄窓より名月を観るキリギリス
死んで別れた妹雛の頬に月
寺の溷に銀河がだらりと垂れ下がる
北枕で見た夢をノートに書き切れず
第14句集『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(2013年・西川徹郎文學館/茜屋書店)
冬烏地獄の空を低く飛ぶ
抜かれるときぎゃあと声出す秋の稗
誰も知らない海が墓穴の中に在る
盲学校幻の橋に雪降らせ
ぎゃあと叫ぶ蝶が白馬を襲う時
祇園の雪のお鶴が少しずつ狂う
お鶴の翼鳥辺野に雪降るよう
井戸から揚がった花嫁を見に山だかり
花嫁は井戸から揚がる白馬かな
佛身という渚の道が奈良に在る
後架の窓の青竹林にぞっとする
半盲の母が羽化する夕まぐれ
秋に逢えば猛禽が棲む君の胸
永遠に悲鳴を上げる寺の樺
桜並木が義眼に映る月夜ゆえ
産道で出会った悪魔美しき
産道と死出の山路が続きおり
山の廃校柱時計が鳴っている
網目から鶏地獄を観ていたり
佛壇の中を三年放浪し
屋根裏遊び西日に焼かれ尽すまで
繃帯で白馬をぐるぐる巻きにする
首の長い姉妹が空飛ぶ夕かな
炎天の旅は犬よりも淋しけれ
いのち尽き果ててから読む『いのちの初夜』
父の背骨の谷川うねりつつ流れ
谷川をまっ青な河童が流されてゆく
ゆめさめるまで月の食事をして過ごす
桜の國の果てまで縄で連れられて
胸に刺さった遠い帆のよう兄の嫁
蜻蛉の青い川が流れてゆく頬を
死馬を孕んだ馬が嘶く山櫻
夕映えが湖畔の寺を血染めにし
冬浜に白い義足が落ちている
私の耳を啄み叫ぶ浜千鳥
野のバスを襲う紋白蝶の群れ
夕月は湖底で叫ぶ白い鶴
死へ急ぐ父白髪靡かせ馬のよう
友禅の姉はひとすじ身を流し
雪降る秋の寺を木乃伊と散策し
白粉の舞妓と木乃伊が入れ代わる
清水寺の舞台で木乃伊と雪の舞
夕茜あかあかと火矢が峠越え
小学校で鬼籍の人を数え切れない
隣人の眼を突く馬上で身を伸ばし
隣の馬の喉に食いつく青い馬
病院裏の川を流れてゆくマネキン
鷲ほどの揚羽飛ぶ町小焼けして
波の彼方の帚の国に父住むらし
たくさんの舌が馬食う村祭
村人の舌で刺された父はサルビア
井戸に落ちた夜の太陽を覗き込む
白樺は繃帯の父か裏山に
さまざまなはらわた流れる秋の川
五月の兄の瞳孔夜の青空は
自転車の妹映る月の湖
彗星を仰ぐ湖底の寺の屋根
玄関先で血涙が出て止まらない
荒れる日恐ろし隣家の空の鯉
佛壇から落ち易し苦悩する桃は
遠く哀しい旅を白髪の自転車で
庭に植えた人形に朝夕水を遣る
大きく育った悪魔連れ出し寺参り
二日ほど家に還る秋津となり兄は
箪笥の上の人形は五年慟哭し
死ねぬゆえ自転車跨ぐ白い秋
十七文字で遺書書くすぐに死ねぬゆえに
蜻蛉の羽根で詩を書く妹遠きゆえ
秋風に空飛ぶ案山子を見てしまう
遠雪崩白い別れでありしかな
寺の畑の案山子狼のように吼え
父さんもうだめだ背の穴に燕棲む
こんなに遠い帚地獄まで来てしまった
未だ生きている案山子を背負い枯野行く
叫ぶ蟋蟀床下の銀河系ならん
妹が跨がる白馬血にまみれ
ヒヤシンス三歩歩けば黄泉が見え
螢野の惨劇見える障子穴
ハンケチが遠くて瞼は月夜の津波
雪虫に混じって母飛ぶ夕かな
雪虫に攫われ空行く兄と姉
ゆうぐれの雪虫裾まで降り積もる
雪虫が積もって自転車走れない
妹の胎内雪虫地獄かな
死後三夜夢のように行く雪の楼閣
死後二日歌舞練場で舞うお鶴
夏草や無人の浜の捨人形
風の旅人よ集まれ新城峠大學
新城峠
私の生地芦別市新城は、北海道は上川郡と空知郡の境界に位置していて北の石狩川と南の空知川に挟まれた山峡の村である。私はこの北のはずれの寒村に淨土真宗の寺院の寺庭として生まれ育った。
村の最北端がなだらかな小さな峠となっていて、新城峠と呼ばれている。少年の頃、私は幾度も自転車を駆って独りで峠へ上った。峠に特別な何かが在るというのではないが、遙か南東のかなたには大雪山系の芦別岳や十勝岳等の峻峰がくきやかに白銀のうねりを露わに見せている。新緑や青葉の季節には一層に峰峰が強い意志を主張するかのように白銀を際立たせるのである。
秋は秋で言葉では遂に言い表わしようのない光景をこの峠は見せてくれる。山峡の村じゅうに棲む幾万匹、否、幾十万匹という無数の秋津たちが、透明なシルクの羽根をまるで旗のように打ち振るわせながら峠の頂をやすやすと往き交うのである。
満月の夜などは殊更に幻想的な思いを掻き立てさせてくれる。月の光を浴びて蘇生したかのように飛び回る秋津たちの美しさは、私にはこの世のものとはどうしても思うことが出来ない。はたして彼女らは燦燦と降り注ぐ月の光を真昼の日の光と過ちて飛び交うのであろうか。あるいは満月の余りに青々とした妖しい光に誘われて飛び交うのであろうか。峠の頂上に立つ時、私の身体にすれすれに往き交う彼女らの肢体が月の光に驚くほどにくきやかに見えて、その余りの美しさに言葉を失う。そればかりではない。両耳をそば立て聞き澄ますならば、忽ち月の光を浴びて羽ばたく村じゅうの無数の秋津たちの羽擦れの音が余りに鮮明に聞こえてきて我が耳を疑うのである。
中秋の満月ともなれば、少年の頃の私はきまって深夜の寝床を抜け出し、その余りにも澄み切った美しい轟きを聴きに自転車を駆ったのである。
(1997年『天女と修羅』後記抜粋、沖積舎)
風の日
初恋の君と別れて來し日より歯磨き粉の匂ひして雪降ってゐる
群れを離れた鶴の泪(なみだ)が雪となる
*
一九四七年九月、私は新城峠の麓の寺に生まれた。
少年の頃、ボードレールやランボーなど世界の詩人に憧れ、
学校から帰ると自転車を漕いで峠の頂に立つのが常だった。
春は遙か彼方に大雪山系の白銀の尾根が燦めき、
秋は無数の秋津が白帆の羽根を棚引かせながら
銀河のように峠の頂を越えて行った。
その絶景の中で私は沢山の詩歌を書いた。
〈お前は天才だ〉と父は私を激励し、
思想家吉本隆明は私を〈天才詩人〉と称んだ。
*
あの日からすでに嵐のように半世紀が過ぎた。
世界文学の頂へ向けた新たな出帆の時が来たのだと、
私は今、吹き荒ぶ風の中で考えているのだ。
七線菊の物語
新城峠の麓の集落新城は、かっては林業で栄え、多数の人の出入りがあった場所として古くから知られていたようである。明治20年1月、青森県弘前町(現在の弘前市)に生まれた少年期の葛西善蔵は、明治36年から39年頃まで4年間、北海道を漂泊したことが知られている。その間の後半の時期に新城峠の東山と呼ばれるパンケホロナイ山の麓の伐採事業の頭領をしていた叔父を頼って新城の奥地に入り、一年余りを過ごしたという。葛西善蔵はその時の体験をもとに帰郷後、名作『雪をんな』を書いた。『雪をんな』は冒頭に空知川方面からパンケホロナイ川の上流を遡った奥所の村へ行き着く描写が為されていて、徐々に新城峠の秘境へと進み行く少年葛西善蔵の姿が鮮明に窺えるのである。
*
俳句を書き始めた十代の頃私は、新城峠に由来しこの地の村民たちによって伝えられてきた美しくも哀しい物語「七線菊の物語」を私の祖母で開基住職西川證信の妻ヒサから聞いた。
ヒサの話によれば、それは新城の開拓期の明治38、9年頃のことであったというから、丁度、葛西善蔵が新城峠を訪れた頃の出来事である。当時、新城では、峠を越える新たな道路を作る工事が行われ、本州方面から多数の人夫が連れられてきていたという。彼等はタコと呼ばれ、数ヶ月堀っ立て小屋に寝泊まりし、工事が終わると又、他地区の現場へと連れられて行ったという。
在る秋の日夜、峠に近い七線と呼ばれる地域の一軒の農家に母と娘が訪ねて来た。母は37、8歳。娘は11、2歳くらいで、歩き疲れていて、衣類もよれよれになっていたという。
事情を訊けば、遠く内地(本州)から父親を訪ねて来たという。
「この辺りに新城というところはありませんか。道路工事の現場で働いているという噂を人伝えに聞いたのです。」
農家の人はその母と娘を家に上げて泊め、母と娘は翌日から何日も何日も村中を足を棒のようにして訪ね歩いた。しかし、ついに父親の居場所は判らなかった。
ある日、農家の人は、思いがけない話を耳にした・それは、峠の道路工事が終わって他所に移る時、一人の人夫が家恋しさのあまりに逃げ出し、見つかって追われ、峠の麓で棒頭に殴り殺されたという噂であった。
どうもその殺された人夫が、母と娘が探している父親のようで、この話をしらたどんなに力を落とすかと胸を痛めた。だが、いつまでも黙っているわけにもいかず、ある夜、思い切ってこの話をしたという。
じっと話を聞いていた母と娘は、その場に泣き崩れ、一夜泣き明かした。
翌朝、母は泣きはらしたまっ赤な目に笑みをたたえながら、
「見も知らない私たちを随分親切にして下さいました。こんなにお世話になりましたのに、私たちには何もお返しすることが出来ません。せめてお礼にこれを」
と言って小さな袋の中から一握りの花の種を差し出して手渡しした。
母と娘は幾度も幾度も振り返っては頭を下げ、振り返っては又頭を下げて去って行った。
それから暫く経って、その年の初めての雪が降る頃、新城峠から14、5キロ離れた石狩川の神居古潭で身元の分からない母娘の入水自殺があったことを、農家の人は知った。
翌年になって峠の雪が解け、大地が緑色に染まった頃、母娘から花の種を貰ったことを思い出し、家の傍の畑に植えた。間もなく真っ白な清楚な花が咲いた。その花は年々殖えて、やがて七線道路いっぱい咲くようになった。誰ともなしにその花を村人たちは「七線菊」と呼ぶようになったという。
この物語を祖母ヒサから聞き終えた少年期の私は、その時、言い知れない哀しみと感動を覚え、私の心の中を一瞬、風のように流れ去ってゆくものを感じたことを今も忘れられずにいる。そしてこの物語は、その後も、私の辛くて暗い青春地獄の心の中に仄かに点った灯のように風に揺れ、或いは私の心の谷底にまっ白な一輪の野菊となって今も何処かに咲き続けている。
この白菊とは、実は自然の防虫成分を抽出する除虫菊であった。『新城町百年史』の記述に依れば、その後、新城は大正・昭和の戦前まで除虫菊の栽培が盛んとなって栄え、新城峠の丘じゅうが白い花で埋まり、新城の代表的な産業となって村を興し、除虫菊御殿と呼ばれる豪農が生まれるなど、海外からの視察者が訪れるほどにもなったという。
昭和二十九年から三十八年まで私の通った芦別市立新城小中学校の校章にもその花のバッチが確かに付けられていたのである。
この物語の文中にある「七線」とは、新城の森林が御料地で明治政府が名付けた区画整理による地区名である。私の在所は今も「六線」と呼ばれ、この物語の文中にある「七線」とは三丁ほどの距離しか離れていない。又「神居古潭」は北海道の代表的なアイヌ民族の聖地の名であるが、そこは切り立つ峡谷を流れる石狩川が最も急流となる難所で深い淵が到る所に渦巻き、此処での入水自殺者の亡骸は上がることはないと古くから云い伝えられてきた。しかし此処は十代の日の私が「創作ノート」を片手に自転車で新城峠を越え、幾度も訪ねた風光明媚の場所だった。
『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』(2013年、茜屋書店)後記「白い渚を行く旅人」収載
帆柱
実存とは私の心の港の折れてしまった帆柱である。風来たりなば、魂の聲を出だす。
『風の言葉─西川徹郎語録集』(未刊)
〈詩〉とは何か─聲無き聲と十七文字の世界芸術
俳句は、日本が生んだ世界芸術である。寺山修司は、十代の日、青森の夜空へ向かって俳句を〈十七音の銀河系〉と叫んだ。彼は文学としての俳句革命を目指したが、西東三鬼等の抵抗に遇って挫折した。私は彼の遺志を継承し、以降半世紀に亘って季語季題の呪縛を破る〈反定型の定型詩〉実存俳句を書き続け、表現の荒野を闘い続けて来た。
与題の〈詩情〉や〈抒情〉と言った書き手の側のメンタルに詩の問題の根源的所在はない。そうではなく、〈詩〉とは何か。表現者に於る言語と存在に関わる必然的な哲学と思索のこの〈永遠の問い〉こそが、あらゆる詩歌や芸術に於る最も切実な火急の難題に外ならぬ。かつて思想家吉本隆明は、「言語表現の極北に挑」む未知の少年であった私を「俳句の詩人」と称(よ)んだ。
男根担ぎ佛壇峠越えにけり 徹郎 (『無灯艦隊』)
双手で耳を大きく蔽(おお)うても、我が身の奥所から絶えず聞こえてくるこの悲しみの聲を私はとどめることが終(つい)に出来ない。〈タスケテクレ〉、その聲はけして絶叫ではない。此の身の奥の扉の更にその奥の奥の内奥から込み上げてくる聲無き聲である。生の極限に立つ時、微かに聞こえてくるこの聲を聞きとどめ、更にこの聲を〈魂の幻影〉として書きとどめ得たものこそが詩であり、文学なのだ。更に云えば、人間存在のこの蔽いようのない悲しみの聲、根源的な悲哀のこの聲無き聲の聞こえぬものを私は詩とも文学とも認めることが出来得ぬのである。
「荒海や佐渡に横たふ天の川」、世界の詩の革命者松尾芭蕉! 絶望の果ての枯れ野で斃れつつある者の聲無き聲、詩と文学に全存在を賭けた者の悲しみの聲が満天の銀河に轟き渡っているのだ。
(『短歌年鑑 平成28年版』2015年 株式会社KADOKAWA収蔵)
少年期
銀河の何処か見知らぬ星に自分と同じ人間が必ず住んでいると信じて、私は十代の日々を過ごした。
(初出 『幻想詩篇 天使の悪夢九千句』茜屋書店・2013年)
秋祭
春祭は雪解けの遅れた年では未だ残雪が所々にあって、残雪に参道の幟が棚引く様子はさもさも北国の山峡の春の祭礼といった趣きである。
しかし、私には殊更秋祭が私の心の山峡の渓深く、幟棚引く哀愁の想念となって私の詩神の生成に関わってきたもののように思われる。
少年の頃、秋祭が来るとすぐ分かった。「ハタハタハタハタ」、参道の幟が強い秋風に棚引く声が朝夕、日夜絶え間なく庫裡の中じゅう鳴り響くからである。春祭にも同じ幟の声が聞こえはするが、空気の加減か気になる事はなかった。
だが、秋祭は私には殊更淋しかった。それは参道沿いの色付き電球のぼんやりした明かりのせいばかりではない。幟の棚引くその声が、夜明け頃になって漸く眠りに就く不眠症ぎみの私の浅い夢の中へまで無理矢理入り込んでくるからである。
(『無灯艦隊ノート』(1997年・蝸牛新社)
〈少年詩人〉と称ばれていた頃、私は石狩川の水の流れが殊更に好きだった。
夏休みはいつも自転車を駆って新城峠を越え、十四、五キロ北にある石狩川一番の急流で両岸が峡谷となって迫(せ)り立つ景勝地「神居古潭」へ出て、沢山の詩歌を作った。
そこは水の流れが無数の岩場をうねって渦を巻き、到る所に怖ろしきほどに波濤が上がっていた。
ある日、その川沿いの道を更に北へ進んで、私は遂に石狩川上流の白銀の大雪山系を北に望む、少年期のあこがれの都、美しき山岳都市旭川に到った。
日はすでに西へ傾き、広々とした石狩川上流の潺(せせらぎ)の波の刃に当たる夕陽の照り返しが、少年の眼を烈しく襲った。
夕映えは少年詩人の身体の髄までをも染め抜いて貫き、錚々とした水の流れは心を濯いだ。それは少年期の私の夢の果ての更なる果ての見知らぬ国の岸辺の小径だったが、私はただひたすら走り続けていた。
あの日からすでに半世紀が過ぎたが、今もなお私は詩歌や小説を書き続けているのである。果たしてあの日の岸辺の小径は、この世の径だったのであろうか。
美しき極北の山岳都市旭川の石狩川の岸辺に佇つ時、ふつと私の胸の奥の薄墨色の茜の中から自転車が現れて出て、その日の遠い記憶の中の夕映えの小径を私は幻の自転車で駆けめぐらせているのである。
エッセイ集『永遠の少年』(未刊)より
新城峠の麓の町新城へ開教に入った私の祖父で正信寺の開基住職しようしん證信は、道内各地へ布教に出る時は、神居古潭か芦別の駅から鉄道に乗る外はなかった。 芦別の町へ出るには、十四、五キロの峡谷の道を徒歩で越え、この空知の川を必ず渡らなければならなかった。北海道の開教期を代表する僧侶で京都の本山西本願寺でしようみよう聲明やごんしき勤式の指導者だった私の祖父西川證信は、若き日より清冽な信仰に燃え、七五歳の晩年に至る迄、雪に埋もれた暁闇の道無き道を越え、幾度この川を越えたことであろう。
かつて明治期に国木田独歩は、うら若き愛人信子を引き連れて、芦別岳の峡谷から流れ落ちるこの緑の川の岸辺をさ迷い歩いた。独歩は後に信子と離縁するが、小説『空知川の岸辺』を書き、文学の名声を後の世に残した。
独歩の若き日の名と共にこの川は緑の鏡となって岸辺を行き来する人々の生を映し出している。
葛西善蔵は少年の日、渡道し北海道を彷徨の果てにこの川を越え、北へ向かって新城峠を目指した。その途上、白魔に襲われて行き倒れになりかかったその日の記憶は、名作『雪をんな』を生み出したのである。
私の文学の果てなき道は、十代の日、祖父の書斎の薄暗がりから歌集、『一握の砂』初版本を見い出した時から始まった。
私はその歌集を密かに鞄に入れ、毎日、教師の眼を盗んで、中学校の教室の窓明かりを頼りに繰り返し読んだ。
私を文学の道へ誘ったその歌集は、何故に祖父の書斎に在ったのか。
その謎が解明されたのは後のことである。
私の祖父には実は、私の顔とよく似た西川しんぎよう信暁(1923~1941)という名の夭折した次男がいたと云う。私から云えば父證教の弟であり、叔父に当たる。親族は皆彼を「麿ちゃん」と愛称して呼んだ。彼は際立って頭が明晰で、しかも幼少の頃から常に書物を持ち歩き、床の中でさえ書物を読み、多数の和歌を大学ノートに書きつけていたと、後年、證信の妻ひさは私に語った。
空知川の緑の水のように、今も私の身体の中に流れ続けている血縁の生きて遂に相会うことのなかった夭折した歌人が、死に近き床の中でまで繙き読み続けていたというその書物こそは、かつて私が祖父の書斎で見出した一冊の歌集、『一握の砂』そのものではなかったのかと、私は今にして思うのである。
祖父は聲明のみならず、北海道随一の布教使でもあったから道内の当時の真宗寺院二百ヵ寺を隈なく巡回し布教した。北海道の寺院は夏の農繁期を避け、冬季間に法要が行われることが多かった。
祖父は暁暗に峠の寺を出て、雪に埋もれた道無き道を急ぐや、その胸には夭折した歌人たるわが子信暁への念いをひしと抱き締めつつ、氷雪のこの空知の川を幾度となく、否、幾千回となく渡ったことであろう。
私の文学は一言で云えば、日本随一の近代文学研究家であったかの文藝史家平岡敏夫氏が命名した〈夕暮れの文学〉であり、平岡氏に私淑した作家斎藤冬海の西川徹郎論「秋ノクレ論」の「秋ノクレ」の文学である。
〈夕暮れ〉、則ちそれは生と死の狭間、日と夜の、そして月と日の光の擦過する狭間である。
この淡く眩い光の交差の中に浮かび出づる十七文字の存在の幻影が、私の文学である。それ故、それは〈十七文字の銀河系〉であり、〈十七文字の世界藝術〉なのである。
しかるに私のこの十七文字の藝術は、薄っすらと血の色に染め上げられている。それはかの啄木へ羨望の念を抱きつつ夭折した我が子信暁の念いを胸にこの川を越えた若き日の我が祖父證信、うら若き愛人信子と岸辺をさ迷い歩いた国木田独歩、更には身籠もった幼き妻を旧里においた儘北海道を彷徨した葛西善蔵、彼らの若き日の胸はまさにこの地獄の火焔の如き北天の夕陽に焼かれていたからなのである。
〈畢〉
註
文中に出る平岡敏夫(1930-2018)氏は、日本の近現代文学の世界的研究家。筑波大学名誉教授で文学博士。北京・上海外国語大学大学院、ソウル・高麗大学大学院、台北・東呉大学大学院、アメリカ・デイキンソン大学等、アジア・ヨーロッパ・アメリカ等、海外の多数の大学の客員教授を歴任し日本の近現代文学の英華を海外へ伝えた。
平岡敏夫氏は、西川徹郞作家生活50年記念論叢『修羅と永遠│西川徹郞論集成』(2015年、茜屋書店)に「金子みすゞは何故死んだのか│西川徹郞小論」を発表した。
斎藤冬海は、かつて日本女子大学で平岡敏夫氏の直接の教授を受けた。平岡氏には『〈夕暮れ〉の文学史』『左幕派の文学』、詩集『月の海』等、極めて多数の著書がある。
文中に出る斎藤冬海執筆の西川徹郎論「秋ノクレ論│西川文学の拓く世界」四百枚は、『西川徹郞全句集』刊行記念論集『星月の惨劇─西川徹郞の世界』(茜屋書店)に収録されている。
本文「夕映の空知川」の初出は、2021年1月15日西川徹郞記念文學館発行の『西川徹郞研究』第2集(発売・茜屋書店)、本文は初出に多少加筆し掲載した。
なお、西川徹郎第二句集『瞳孔祭』(南方社)は、1981年、石川啄木『一握の砂』、国木田独歩『空知川の岸辺』、葛西善蔵『雪をんな』と共に『北海道文学全集』(立風書房)に収載されている。