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銀河系通信ブログ版 2022年12月23日
〈異界の戦場PARTⅣ〉
妹としの〈あめゆじゆ〉とは何か。西川徹郎の宮澤賢治論■妹としの聲無き絶唱
──『春と修羅』「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉とは何か西川徹郎
宮沢賢治は偉大な詩人であり、研究者による多数の論考が発表されてきた。だが彼には依然として未解明の問題や謎が多い。大正元年(16歳)父政次郞宛書簡に「歎異抄の第1頁を以て小生の全信仰と致し候」とあり、当時の彼の聞法の有り様が判る。島地大等は本願寺派の高僧だが天台本覚論の論者だった。中古仏教界に嵐の如く起こった天台本覚思想の究明と彼の詩や思想への影響等は未解明だ。7年父宛書簡に「戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」(傍点筆者)と書く殺人肯定の論理は仏教ではない。この「法性」の出所は何か。軍部とも繋がる国柱会の国体主義や日蓮主義の本質を法華経の純粋信仰を求めた彼が何処まで識っていたか。詩集の集題は何故『春と修羅』か。妹としの死は11年11月だ。「修羅」とは殺害のことである。9年彼は花巻界隈を托鉢し、これみよがしにうちわ太鼓を叩いて題目を高唱して廻り、父や周辺を驚かす。政次郞は念仏者として知られた町の名士だが、彼は故意にその尊厳を踏みにじり、身口意(しんくい)を以て父を殺した。修羅は裏切りに縁(よ)り生起する。「恨みの心は修羅となる」(童話「二十六夜」)とは、『涅槃経』(迦葉菩薩品第12)の「未生怨」に拠って彼自身をいう言葉だ。父王頻婆娑羅(ビンバシヤラ)を裏切り殺した仏教史上の修羅、嵐の中の芭蕉樹の如く髪振り乱し慄(おのの)く阿闍世(アジャセ)が彼である。五逆の彼の苦悩は生涯身から離れることはない。
彼の詩は大海の潮のようだ。海面の潮流と海底のそれとは同一ではない。それらは層の上下の重なりではなく意識下に垂直に相互に交錯し渦巻く。この深遠な詩海に潜む歯を剥く青鮫のような生き物、それが彼の詩に現れた「ひとりの修羅」(「春と修羅」)である。
「永訣の朝」の「あめゆじゆとてちてけんじや」は、としが死の間際に彼に告げたラストメッセージだ。地方語とされるこの末期の聲「あめゆじゆ」とは何か。このメッセージの究明こそこの詩を本質的に根底から読解する唯一の鍵である。この根本的問題が不問の儘に賢治没後80年が過ぎた。としは彼の父殺しをまのあたりにし国柱会入会前後の苛立つ彼の心奥を知る唯一の肉親だ。行間に4度もリフレーンされるとしの末期の聲が「雨雪」などといった物であるはずはない。「あめゆじゆ」とはアミダの音であり、としと彼が幼少の頃に宮沢家の仏間で父母弟と一緒に称えた念仏のことである。何故ならばアミダとは梵語のアミターバ(Amitābha)无量光とアミタユス(Amitāyus)无量寿の意であり、「あめゆじゆ」とは正しくこのアミタユスに疑いない。アミタユスがとしの息の喘ぎに「あみたゆじゆ」、更には「あめたゆじゆ」となり、それが「あめゆじゆ」と変化した。それ故「あめゆじゆとてちてけんじや」は「あめゆじゆとなえてけんじや」の意であり、末期の息をふり絞ってとしは「兄さん、どうかあの日のお念仏にたち帰って下さい」と懇願した。としのこの末期の聲に父を踏み倒し家を出た彼には応えるすべがない。「まがつたてつぱうだまのやうに」外へ飛び出すほかはなかった。鉄砲玉が曲って飛ぶことはけしてない。それはとしの末期の聲に動揺した彼の異常に屈折した心を喩えたものだ。従って集題の「春」は四季の春ではない。「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」と記す如く、イギリス海岸の渚の波の如く彼の胸底に去来する念仏を称えていた幼年の日の宮沢家の陽の差す風光を喩顕した言葉だ。この詩の中で彼は「あめゆじゆ」を敢えて「雨雪」に変換して記録し、秘かに封棺してこの詩海の底に埋め、それを伏蔵としてこの詩集を構成した。つまり彼はこの伏蔵の開棺、即ちこの詩集の真の解読を、「あめゆじゆ」の秘密を感知するであろう未来の未知の読者未知の詩人に秘託したのである。
かって草野心平は絶賛しつつも「無聲慟哭」の「「ふたつのこころ」の意味が解らぬ」(新潮文庫『無聲慟哭・オホーツク挽歌』解説、昭和28年)と述べた。それはとしの心を内に抱えた彼の現在と過去未来の両極に引き裂かれた心的情況を指す。「心象スケッチ」とはこのとしと彼との切実な悲劇的な心的光景を記録した詩であることの標示に外ならぬ。詩を読むとは表面の語義と行の意味ではなく、字間行間に溢出する詩心の潮流を感得することだ。としの末期の聲には父の我が子への変わらぬ愛憐の念いも含まれている。彼の詩に未だ多くの謎が残されているのは、「永訣の朝」「無聲慟哭」を生者の側からの「死を見守る眼差」(中村稔「序説」昭和26年初出)と捉えてきたことに多くが起因するだろう。彼の詩の本質はそこにはない。死に行くとしの聲にならぬ永訣の絶唱がこの詩の本質なのだ。死生の臨界に在って死に行く者の側から生者を思うひたすらなる絶唱、それが唯一この詩を構成し、その無聲の聲、無聲の慟哭がこの詩集の全編に轟き渡っているのだ。2014年3月31日
岩手県花巻市高松一 宮沢賢治学会イーハトーブセンター発行
『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報』第48号■荒野の旅人──〈自問の鏡〉としての宮澤賢治
妹としの聲無き絶唱「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉とは何かⅡ西川徹郎
1.はじめに―〈宮澤賢治〉とは誰か
そして彼は如何なる詩人、如何なる文学者だったのか
本特集の冒頭に掲げた論文「妹としの聲無き絶唱― 『春と修羅』「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉とは何か」は、2014年3月31日『宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報』第四八号に発表した筆者の書き下ろし宮沢賢治論である。
この論文は、13年末に宮澤賢治学会会報編集部から届いた執筆依頼状に従って書き下ろした依頼原稿であり、四百字詰原稿紙4枚という限られた分量だった。その為に論考は、自ずから要略的エッセイとならざるを得なかった。
本論「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮澤賢治」に於ては、便宜上、『宮澤賢治学会イーハトーブセンター』会報第48号に発表したこの論文を「原文」と名付けて自註を加え、かつ新たに筆者の「宮澤賢治追論」を書き進めることとする。
〈宮澤賢治〉とは誰か、そして彼は如何なる詩人だったのか、如何なる文学者だったのかについて思索し探究することは、つまりは筆者自身にとって「詩」とは何か、「文学」とは何かという逃げおおすことの出来ない不可避の〈自問の鏡〉の前に立つことである。
この筆者自身に突き付けられた〈自問の鏡〉としての宮澤賢治は、筆者には余りに無残で悲劇的な一人の詩人、時代の不幸と悲劇を体現した一人の言語表現者としての彼の思わず目を覆うべき敗北のすがたが見え現れてくる。
その彼自身の心奥の荒野に立つ一人の詩人の〈生〉の現場に降り注ぐ光と影が、その〈自問の鏡〉に写し出された悲惨な一人の詩人、一人の無残な文学者、それが〈果てなき心奥の荒野〉に立つ宮澤賢治という一人の旅人の姿である。
文学とは何か、詩とは何か、詩人とは何か、詩人とは如何なる〈生〉の惨劇を生きる存在なのか、あくまで一人の詩人、一人の言語表現者としての〈宮澤賢治〉を追い、探究せんとする時、この〈自問の鏡〉は悲劇的で残酷な心的荒野に立つ一人の詩人、一人の旅人の姿態をまぼろしの如く写し出す。筆者は斯くなる彼の姿を「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮澤賢治」と呼ぶことにしたのである。2.「国柱会」入会と〈あめゆじゆとてちてけんじや〉
筆者は、この「原文」を「彼には依然として未解明の問題や謎が多い」と書き始め、その「未解明問題や謎」の一つとして1921(大正10)年、25歳の賢治の「国柱会」入会を挙げた。何故、それが「未解明問題」で「謎」なのかと云えば、賢治は、真宗大谷派の篤信の門徒で念仏者である父宮澤政次郎と日夜、「淨土真宗と法華経の教法」を巡っての親と子の問答に明け暮れていたと伝えられているからだ。しかし、斯様に熱い肉親間の論争が、まして大乗仏教に於て「法華一乗」を説き、法華本門に釈迦佛の「久遠実成」を説き詮わす『法華経』の純粋信仰を求めた宮澤賢治にして、何故に〈日蓮主義宗教右派〉と呼称される過激な政治組織「国柱会」へ入会したのだろうか。
筆者には、先ず以て、この事実こそこの詩人に関わる未解明問題や多くの謎の中で、最も根源的な、正しく〈未解明問題〉なのである。何故このことが〈根源的〉かと云えば、この問題こそが、妹としの今際(イマワ)の〈聲無き絶唱〉と直に関連し、としが末期に発した無聲の慟哭「あめゆじゆとてちてけんじや」とは、としと賢治との間の今将に死にゆく者と生きて遺る者との死生の狭間の薄く透きとおった一枚の、迂闊に触れれば忽ち一瞬に崩れ落ちる硝子板のような、しかし確かに響き合う死生の極みのラストメッセージであることを表しているからである。
まさにそれが宮澤賢治がこの詩「永訣の朝」の中で妹としの〈聲無き絶唱〉を、四度もリフレーンさせて記録せねばならなかったこの詩の必然性であり、この詩の題「永訣の朝」の〈永訣〉の意味を明らかとするものだからである。
更に又、これこそが賢治自身のその後の〈宗教詩人〉としての〈心象〉から拭い去ることの決して出来得ぬ妹としの〈生〉の残像であり、その妹としの〈生〉の残像を無残な〈永遠の荒野〉の相として結実させることに関わるからである。
故に妹としが賢治へ〈永訣〉を語るこの今際(イマワ)のこの言葉が、雨雪即ち霙(みぞれ)などと云った具体的物象を指す等と云った解説は初めからあるはずはないのである。本来、詩という言語表現の、言語の韻律に依拠して未知の幻象世界を喩的に屹立させる詩言語は、その表現の特質として現実と非現実の不可視の狭間にいわば唯一、一回性の、妙有的(みようう)的で影現(ようげん)的な非存在の存在として在る言語の状態をいうのであり、斯くなる詩言語が初めから現に実在する現実的な現象的な或る何物かの具体としての物象(例えば雨雪=霙)を指示する等と云った捉え方には、詩言語の音韻の中に現実と非現実を交叉させた詩言語特有のメタファに基づく詩歌藝術に対する本質的な不理解があるのだと云ってよいだろう。
仮にそれが「霙」であろうが、「海」であろうが、「松の木の枝」であろうが、「銀河」であろうが、「月輪」であろうが、「森や林」であろうが、如何なる実在する物象を指すものであろうが一向に構わないのである。ただ、この詩に於ては、「あめゆじゆ」の音韻が「アミタユス」であり、その「アミタ」とは浄土教の法義の核心をあらわす一切法界の本源であり、梵語の「ア・ミタ」(アは無にして否定、ミタは量にしてはかる、つまりアミタとは無限・無量・無邊の意、転じて無碍、はかり知れない佛智のはたらきとしての佛の光明(智慧)と壽命(慈悲)の二無量を表す梵語、それを音写して漢語で「阿弥陀」と表記する。それを「久遠」とも「常住」とも「涅槃」とも「无上覺」とも「真如」とも「一如」とも「如如」とも「如來」とも「如去」とも「一實」とも「実相」とも「一法句」ともいう)の音であり、それは法華経本門の釈迦をも含めた十方世界の恒河沙数(ゴウガシヤス)(ガンジス河の沙の数)の如く無量無数にして無辺の一切の諸仏如來の本源(久遠)を意味する音韻であり、その中に大乗佛教の中核的教法である真如・一如の法理法則が含蔵されていることが重要なのである。それが、聖徳太子が尊んだ「三経義疏」(太子は一切経の中から殊更『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経を尊び義疏を製作した)の『勝鬘経義疏』が説く「無邊・不斷」の二義を殊更顕示するアミタの音韻であり、大乗仏教の本源を的示していることが重要なのだ。この二義は「無邊」は光明無量の徳にして光明の法界周遍を表し、「不断」は壽命無量の徳にして三世の局限を超絶する義を顕し、由って〈如来常住〉の法を顕すのである。故にアミタは過去未来現在の三世の局限を超絶して未来永劫に亘って人類の唯一の救済法としてはたらく阿弥陀如來の名号南無阿弥陀仏の大悲の力用(リキユウ)を顕示しているのである。故に「アミタ」の音韻は大乗仏教の本源を顕す名義であり、それは親鸞が『顯淨土眞實教行證文類』の冒頭に、第一巻である「教文類」の標挙として掲げた経題「大無量壽經」の「大無量壽」という佛名(経名)であり、それが三世法界に耀く一切佛法の本源を顕す佛名「大無量寿=アミタユス」であり、それを親鸞は、「本典」総序の総讃の文に「難思ノ弘誓ハ難度海ヲ度スル大船、無碍ノ光明ハ无明ノ闇ヲ破スル慧日ナリ」と讃述した。「大船」は一切衆生を度すミタの名号、「慧日」とは三世十方世界に永遠に耀く智慧の太陽、則ち「アミタ」のことであり「あめゆじゆ」のことである。
在家の念仏者である若き賢治やとしが、斯様な佛法の本源を指す語義を知っていたか否かと案ずる人がいるかも知れない。
しかし、淨土真宗の篤信の門徒は、老少を問わず、却ってその寺の僧侶よりも佛法を学び知悉した念仏者が居る場合も決して珍しくなく、宮沢家とは元来、そのような〈真宗念佛〉を聞信する家系だったと考えられる。
宗祖親鸞は、念仏歓ぶ真実信心の人々を皆等しく、信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまふ /大信心は佛性なり/佛性すなはち如來なり 『浄土和讃』「諸経和讃」(傍点筆者)
と「如來とひとし」き人と讃述するのである。更に『顕浄土真実教行証文類』の「信文類」の「真佛弟子釈」に
「眞佛弟子」ト言フハ、「眞」ノ言ハ偽二対シ假二対スルナリ。「弟子」トハ釈迦・諸佛之弟子ナリ。金剛心ノ行人ナリ。斯ノ 信行二由リテ必ズ大涅槃ヲ超證ス可キガ故二、「眞佛弟子」ト曰フ。 (読み下しは永田文昌堂版『真宗聖典』に依る)
と述懐する如く、真宗の念仏者の信心は、聖道自力の行者の発起する「わが信念」の如きものとは超異して、たとえ「煩悩具足ノ凡夫」にして「罪業深重」たりと雖も、又としの如く自らの死を前にしたうら若き念仏者たりと、更にはたとえ下は堕獄の提婆をはじめとして上は大乗の高位の菩薩弥勒たりと雖も、ミダ如來より賜る本願力回向の信なくば一人たりとも大涅槃を證すること能わず。信心歓ぶ者は提婆も弥勒菩薩も皆斉しく同じく「金剛心ノ行人」なれば浄土に生まれ、必ず無上の佛果即ち「大涅槃」を悟る故に、「真ノ佛弟子ト曰フ」と親鸞は讃述したのである。
もとより、哲学者鈴木大拙が驚嘆し世界へ喧伝した浅原才市の如く「妙好人」と呼称される仏法者の出現は、佛教八宗わが国に広まれりと雖も、唯浄土真宗の念佛者に限られるのである。3.賢治と妹としが暗誦していた『阿弥陀経』「名義段」の〈阿弥陀=アミタ〉
「父の政次郎は「我信念」という仏教講話会を主宰するほどの念仏者であり、「妙好人」の如き信心の人であったろうと考えられる。「賢治は幼いころから宮澤家の佛前に正座して浄土真宗の経を暗誦した」(『宮澤賢治と石川啄木』56頁下段/2012年刊、徳間書店)と伝えられている。
「浄土真宗の経」とは、一般的には「浄土三部経」といわれる『佛説無量壽経』『佛説観無量壽経』『佛説阿弥陀経』のことだが、通常、門徒が読誦する経は、「小経」と呼ばれて門徒にも親しい『佛説阿弥陀経』である。他の二経は長大で、かつ難解だったりして門徒の読誦には『佛説阿弥陀経』が相応しいのである。賢治が幼い頃から宮澤家の仏壇に正座して浄土真宗の経を暗誦していたという経とは、紛れなくこの『佛説阿弥陀経』のことである。
実はこの経には他の経典には詮述されていない「名義段」と呼ばれる一章がある。実にこの「名義段」の章中に「アミタ」のいわれが詳説されていて、この経の肝要箇所となっている。「名義」とは「アミダ如來のアミタの名のいわれ」のことである。この佛の名義を釈迦が無問自説(問われもしないのに釈迦自ら佛弟子舎利弗に説く)して説き明かす箇所が「名義段」であり、この経の要所である。
この「名義段」に現れた「アミタ」のいわれ「光明無量アミターバ、寿命無量アミタユス」の法義は、実に賢治やとしは幼少の頃よりこの経を暗誦していたというから、疑いなくこの経の名義段「阿弥陀(アミタ)」のいわれを熟知していた。つまり、この経の「名義段」の「阿弥陀」とは梵語「アミタ」の音写文字故に、賢治ととしの間では、この経の名義段を通して「アミタ」のいわれを幼少の頃から身に付けていたことになる。実にこの「阿弥陀」の名義(いわれ)こそ、梵語のアミターバ(Amitābha)无量光とアミタユス(Amitāyus)无量寿の意であり、十方世界の無量無遍無数の諸佛如來が夫々十方世界に於て、その御法の素晴らしきことを讃嘆し護念する相(すがた)を説き詮す経典が『佛説阿弥陀経』(小経)であり、この経が説く南無阿弥陀仏の「アミタ」の名義こそ大乗佛教の〈本源〉にして、淨土教の核心的法義なのである。舎利弗、汝が意に於いて如何。彼の仏を何が故ぞ阿弥陀と号する。舎利弗、彼の仏の光明无量にして十方の国を照らす に障碍する所無し、この故に号して阿弥陀と為す。又舎利弗、彼の仏の寿命及び其の人民も无量无辺阿僧祇劫なり、故 に阿弥陀と名く。 (読み下し文は永田文昌堂版『真宗聖典』)
されば「アミタ」とは梵語のアミターバ(Amitābha)无量光とアミタユス(Amitāyus)无量寿の意であり、『小経』名義段の「光明无量」段には「十方の国を照らすに障碍する所無き故に」とあり、悪業煩悩の我等衆生を照らし、疑いの闇を破って我等が往生の因「信楽」を成じせしめ、「寿命无量」段には「彼の佛の寿命及び其の人民も无量无辺阿僧祇劫なり」とあり、「彼の佛の寿命及び其の人民も」とは、彌陀の淨土へ往生した人々は彌陀と同一同体の佛果を得、无量の壽命を得ると説かれる。つまり、我等、念佛衆生の往生の因と果の悉くが「アミタ」の三字の中に含蔵し、この南無阿弥陀仏の名号を衆生に施与してその機を南無阿弥陀仏を全領せしめ、その機を南無阿弥陀仏の主に仕上げ、信ぜしめ、称えせしめ、南無阿弥陀仏の本願海の一味に仕上げ給いて、我等を救いたまい、ミダの淨土へ引き揚げたまうて往生成仏せしめたまうのである。
即ち阿弥陀如來は、我等が前に南無阿弥陀仏の六字の名号となり、我等を召喚したまう御聲となって如來し、我等衆生を洩れなく救済し、无上佛にせんとはたらく智慧・慈悲極み無き大乗仏教の究極的教法が「アミタ」の三字であることを、親鸞は『顯淨土眞實教行證文類』(『教行信証』)1部6巻を以て顕彰し、殊更「真佛土文類」に於て光寿二無量の願意を顕彰してアミタ如來を「諸佛中之王ナリ」「光明中之極尊ナリ」と明証したのである。更にミタ如來を天親菩薩の『淨土論』に出る佛名「帰命盡十方無碍光如來」と呼んで「盡十方」つまり三世十方の一切法界の悉くにアミタ如來の無碍の光明が充ち満ちまします故に一切衆生の皆悉くがアミタ如來の攝取の光網を被る身なれば、皆悉く如来の光明の中に住む身となり、現生に正定聚、次生には淨土に生まれ大涅槃を得ることに決定した身となることを明証したのである。この法義を「現生正定聚ノ益」と呼び慣わす。
しかるに十方恒河沙数(ゴウガシヤス)の无量无数无邊の諸佛如來ましませども、「阿弥陀如來一佛のみが何故に「アミタ」と号するのか」というこの経説が含蔵する深義を親鸞は開顕し、此処に阿弥陀如來を以て久遠實成の佛とし十方三世の諸佛中の法王なれば、十方無量の諸佛に対してはアミタ如來を以て久遠実成の本師本佛と為すという義が顯出するのである。故にこの一佛をのみ「アミタ」と号することを『阿弥陀経』「名義段」は顕しているのである。
即ち斯かるアミタ如來は、三世法界中の〈法王〉にして〈久遠實成の本佛〉なれば、自ずから『法華経』本門(「寿量品」)の釈迦は、三界中の〈法王〉にして諸仏の〈本師本仏〉たるアミタ如來に仕える末仏となり、法華経の説く釈迦佛とは実にアミタ如來の本願名号を説き伝えんが為にミダより此の世に使わされて佛法を興業した諸佛中の一佛となるのである。
宗祖親鸞の『淨土和讃』は、『法華経』本門の教理に基づく天台本覚思想に対し、曇鸞大師の『讃阿弥陀佛偈』と淨土三部経に基づき、更に真宗七祖の聖教に基づいて製作された、大乗仏教の本源としてのアミタの法理法則を明証し讃歎する和讃集である。佛光照耀最大一/光炎王佛トナヅケタリ/三途ノ黒闇ヒラクナリ/大應供ヲ帰命セヨ
(『浄土和讃』「讃阿彌陀佛偈和讃」、傍点筆者)
聖道権假ノ方便二/衆生ヒサシクトゞマリテ/諸有二流転ノ身トゾナル/悲願ノ一乗帰命セヨ (『浄土和讃』「大経讃」)又、親鸞はこの和讃に於て、大乗佛教の本源であるアミタの極理を「光炎王佛」と讃述していることは注目しなければならない。「王」の一字は、「自在」の義を顕すのである。「謗る者叛く者」といった悪業の人を如何に救うか。「王」ならば如何なる悪機たりとも三途の黒闇より彼等を自在に救抜出来るであろう。
親鸞は更に『浄土和讃』に『佛説観無量寿経』「真身観」の「一一光明。遍照十方世界。念仏衆生。攝取不捨」(「一一の光明は十方世界を遍く照らし、念仏衆生を攝取して捨てず)、読み下しは前記、永田文唱堂版『真宗聖典』に依る」の経説に善導大師の『往生禮讃』前序の然レバ本(モト)ミダ如來、光明名号ヲ以テ十方ヲ攝化シタマフ、但信心ヲ以テ求念セシム。 (『淨土真宗聖典全書一』915頁。『往生禮讃』前序)
の釈義を承けて、次の如く和讃するのである。
十方微塵世界ノ/念仏ノ衆生ヲミソナワシ/攝取シテ捨テザレバ/阿弥陀トナヅケタテマツル (『浄土和讃』「小経讃」、傍点筆者)
親鸞のこの釈述に依れば、「アミタ」とは即ち念仏する衆生を一人も洩らさず救う「攝取不捨(攝め取って捨てぬ)」のミダの誓願の大悲の力用(りきゆう)(はたらき)であると讃述している。
又更に親鸞は、この「摂取不捨」に左訓を施して、次のように「攝取不捨」を釈述している。攝取トイフハ、二グルモノヲオワヘトルナリ
不捨トイフハ、ヒトタビトリテナガクステヌナリ
(『浄土和讃』「小経讃」、傍点筆者)「二グルモノヲオワヘトル」とは、「逃げてゆくものを追うて大悲の胸に攝め取る」「一たび攝め取ったならば二度と再び離すことはない」と誓うミダ如來の大悲心が「攝取不捨」の義であり、親鸞はこれを以て、『佛説阿弥陀経』「名義段」の「アミタ」の名義であるとするのがこの和讃の意である。
親鸞のこの釈述に依れば、我等凡夫は、如來に背を向け、如來に叛き、如來を譏り、如來を足蹴にして、逃げ惑う如き佛法の逃亡者に外ならない。如來に叛き如來を謗る斯くなる怖ろしき三界流転の身なれば、我等こそまさしく「罪業深重・煩悩熾盛」(『歎異抄』第一章に「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんが為の願にまします」)とある如何にしても救われ難き佛法の逃亡者なのである。斯くなる我等凡夫罪人をこそ助けんが為に、ミダは盡十方世界へ光明の投網(トアミ)を放って我等凡夫悪人罪人を捕らえ、その光網の中に棲む身と我等を仕上げて一期の限り、「正定聚不退の位」に即かしめたまうのである。故に親鸞は、この一佛のみを「アミタ」と名付けるのだと讃述したのである。
妹としが、遺しゆく兄賢治へ発したラストメッセージ「あめゆじゆとてちてけんじや」の「あめゆじゆ」とは、斯くなる如來を謗る者叛く者をこそ助けずにはおかんというミダ如來の大悲心と南無阿弥陀仏の六字の名号のりきゆう力用(はたらき)を顕す佛語「アミタ」であることに疑いようはないのである。
宮澤家の佛間に於て幼少の頃より賢治ととしが正座して暗誦していたという淨土真宗の経典『佛説阿弥陀経』の「名義段」に出て来る「阿弥陀=アミタ」のいわれとは、「久遠よりこのかた未来永劫に亘って一人たりと洩らさず、叛く者、謗る者、罪業深重の凡夫をこそ助けずにおかん」という大乗佛教の一乗究竟の救済法としてのアミタ如來の本願名号の力用であり、「盡十方」とは三世十方世界の全体を覆うアミタの攝取の光網を顕し、妹としの末期の無聲の絶唱「あめゆじゆ」とは、斯くなる如來大悲の力用を指す言葉だったのである。4.宗教発生の初源と口承の言語
天沢退二郎氏と共に宮沢賢治文学の先駆的な研究者である菅谷規矩雄(1936年~1989年)は、宗教の発生の初源の「文字で書かれる以前の、口承の言語の様態」について、次のように述べる。
神学とは、聖書を対象とする解釈学です。これはなにもキリスト教の聖書にかぎらず、仏教のばあいでもそうですが、その聖なる原典として〈聖書〉すなわち書かれたもの(エクリチュール)には、当の宗教の発生の状態、つまり文字で書かれる以然の、口承の言語の様態を、しかも〈信〉の核心にふれるものとして、はらんでいます。
(『宮沢賢治序説』大和書房、付録・著者へのインタビュー)右の言葉だけでも菅谷という論者が宗教と文学の双方に通達した傑出した言語学者で評論家であることが判るだろう。もし聖書で此れを云えば、新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭の記述が「はじめに言葉ありき」という文句で書き始められていることである。聖書の言語がこの文言一句から書き始められること自体が、筆者は緊張と驚怖とに思わず路上で立ち止まらねばならない。何故ならば、この一句の言葉は言葉無き沈黙という名の闇の中から言葉として聖書の言葉が書き始められ、言葉としてこの地上に聖なる世界が出現したことを物語っているからである。仏教でもしこれを云えば、経典というものの多くが「如是我聞」又は「我聞如是」の文言から始まっていることと同義と云ってよいだろう。経の初めの「我聞」の二字は、佛陀の弟子で多聞随一にして佛滅後の結集(けつじゆう)を阿闍世王と共に主催し座主を務めた阿難尊者の「聞」であると謂われる。だが阿難の「聞」の以前に必然としての仏陀の「聲」があらねばならぬ道理だ。浄土の経典で云えば、『佛説无量寿経』が「我聞如是(我聞くは是の如し)」で始まるのは、ミダと一体と化した佛陀釈尊(真宗学では此れを「融本の釈迦」又は「五徳瑞現」等と云うている)の聲を聞いた阿難の信心歓喜の嘆声である。阿難の「聞」の奥所にその初めに佛陀世尊の聲があり、更にその奥所に如來の「聲」がひそめられている。如來とはこの場合ミダであり、この経はミダの因位法蔵菩薩の本願海が説かれる大乗佛教中の至極の経典である。このミダの本願海が上巻「重誓偈」中には「名聲超十方」の一句として偈述されている。ミダの〈任セヨ必ズ救ウ〉の大悲の喚声が南無阿弥陀仏の六字の名号であり、十方世界を超えて名聲は轟き渡っている。その名聲は我等凡夫の意業に到って信となり、それが口業に顕現して称名となり、身業に現れて礼拝となる。ミダ如來のこの大悲心海の波濤が念仏者の三業に発露し、念仏者の身の全体悉くが「聞名」という法を聞く身となる。「名聲超十方」とは斯くの如く、ミダの「任セヨ必ズ救ウ」の喚声が十方世界に轟きわたる様態を顕す偈述である。
親鸞はこの句を『顕浄土真実教行證文類』(『教行信証』)「行文類」の「正信念佛偈」中に「重誓名聲聞十方」と「聞」の一字を添えて偈述し、佛陀の経説の奥処から轟き渡ってくるミダ如來の召喚の聲を聞きとどめ、疑い晴れた心相が淨土真宗の正しき信心であり、ミダの名聲は口業に発露して我等が称名念仏となる、この念佛成佛の教法が大乗佛教の極説である事を顕示したのである。
菅谷規矩雄の前掲の言葉でいえば、「宗教の発生の状態、つまり文字で書かれる以前の、口承の言語の様態を、しかも〈信〉の核心にふれるものとして、はらんでいます」に外ならぬのである。5.妹としの 「国柱会」入会と「あめゆじゆ」に秘託した理由
「原文」に賢治の詩の根源的な未解明問題として彼の日蓮宗国柱会(以下、「国柱会」と表記)入会問題を挙げたのは、父政次郎と賢治との論争や口争いは、今迄の諸家の論説ではそれを「淨土真宗と法華経」との家庭内の対立問題と捉えてきたからである。それはそのように喧伝されてきたが、そのように見えつつ実はそうではない。父政次郎という人物は、言う迄もないが、天才詩人賢治の父であり、又知性的な才媛としという世に稀なる存在二人の実父であり、花巻仏教会を組織する等を為した篤信の念仏者であり、「妙好人」と喩えられてもよい篤信の念仏者だった。しかも政次郎は町の名士として世間の道理や時代の危機的状況を感知出来る人物だった。故に当時、流行の日蓮宗信者団体「国柱会」が、如何なる政治組織であり、日蓮宗を名乗れども、軍部と手を組んだ危険な政治組織であるという実際を政次郎は知悉していた。
又、妹としも後に賢治に従って「国柱会」へ入会したという説(今野勉著『宮沢賢治の真実』新潮文庫)があるが、とし自身の信仰に「国柱会」入会の理由はみられない。知性的で冷静な妹としは、法華経へ自らの信仰を寄せたのではなく、「国柱会」入会前後の賢治の苛立つ心奥を知っていた唯一の肉親故に、兄賢治を単身で「国柱会」へ置いておくことは出来ない、という兄を案ずる懸念の外はなかった。それが、としの国柱会入会の動機と理由の全てである。
筆者はそれを「原文」では「妹としは彼の父殺しをまのあたりにし国柱会入会前後の苛立つ彼の心奥を知る唯一の肉親」と書いたのは、賢治は「国柱会」が法華経の純粋信仰の聞法や教学の場と信じて、1921(大正10)年1月、親を踏み倒し家出し、単身で上京して、下谷鶯谷の国柱会本部へ入会を申し込んだのである。しかし、その賢治が入会後たちどころに判った事実とは、「過ちて自ら過激な政治的組織の一員となってしまった」という彼の本心と自身の置かれた状況である。しかし賢治自身の立場は、法華経の純粋信仰の場と信じ親の尊厳を抹殺してまでも飛び込んだ「国柱会」の実体が、希(もと)めていた「大乗仏教の純粋信仰の場、そしてその為の聞法と教学と布教の実践の場」ではなかったという事実を知り、そしてその内部世界の現実は、正に吹き荒れる嵐の如きものだったと考えられる。
「国柱会」内部の神道と法華を合せた冥妄の実相を知った賢治の、「国柱会」入会直後の心奥を知っていたのは、知性的で常に冷静に賢治を観ていた妹とし一人だった。若き賢治は、自らの心奥の荒れ狂う嵐を他者へ一言たりと語ることも教えることも憚った。まして熾烈な口論の果てに、「花巻界隈をこれみよがしにうちわ太鼓を叩いて題目を高唱して廻り、父や周辺を驚かし(略)身口意を以て父を殺」(「原文」)し、更にその父を踏み倒して家を出て、単身で飛び込んだ「国柱会」が、自ら信じていた世界と大異していたことを知った直後の賢治は、その父へ自らの荒れ狂う心奥の嵐吹きさ荒ぶ苦悩を語ることなどは出来なかった。何故かと云えば、それは偏に若き賢治自身の〈自恃〉が為のゆえである。まさしくこれこそが賢治と妹としの二人のみが知る賢治心奥の凄まじき〈心象光景〉に外ならない。これを賢治は、自身の言葉で〈心象スケッチ〉と言ったのである。
この賢治と妹としの二人のみが知る賢治の内部世界の秘すべき荒れ狂う「心象」を、筆者は「原文」にこの詩の中で彼は「あめゆじゆ」を敢えて「雨雪」に変換して記録し、秘かに封棺してこの詩海の底に埋め、それを伏蔵としてこの詩集を構成した。つまり彼はこの伏蔵の開棺、即ちこの詩集の真の解読を、「あめゆじゆ」の秘密を感知するであろう未来の未知の読者未知の詩人に秘託したのである。
と論述したのである。
戦後の傑出した文芸評論家の一人菅谷規矩雄は、『宮沢賢治序説』の中で、大正10年の1年間の時間には、宮沢の全存在の契機が、本質として集約されている。わたしたちの知っている、また知りうる宮沢賢治のすべては、この一年間に、宮沢の内心がふみこみ、ふみまよった時間の、いわば蒼ぐろい深淵から発している。しかしまた他面、この一年間の宮沢の動静は、かれの生涯のうちでもっとも不分明なところの多い、わかりにくさを秘めている。従来の宮沢論や研究は、もっぱらこの一年間の本質を欠落せしめることでなりたってきたと極論してもよいだろう。
(傍点は筆者。菅谷規矩雄著『宮沢賢治序説』(前出1980年、大和書房、34頁)と、宮沢賢治の人生と文学にとって、彼が「国柱会」入会を果たした大正十年の一年間が、彼の〈全存在の契機が、本質として集約〉されていると、宮沢研究の欠くベからざる本質的核心を指摘しているのである。
筆者のこの「宮沢賢治追論」の次章は、この「国柱会」とは何か、創始者田中智學とは賢治にとって果たして如何なる人物だったのかを検証することとする。6.田中智學「国柱会」とは何か
日蓮宗国柱会は、1920(大正9)年、日蓮主義に基づく国家建築を主張する日蓮宗信者田中智學が創始した政治的右翼団体であり、宮沢賢治と並ぶ著名な会員の一人に満州事変の首謀者とされる帝国陸軍軍人石原莞爾がいることを例に挙げる迄もなく、極めて過激な宗教右翼組織である。「皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化する」(昭和五二年、田中香浦著『田中智学』真世界社)ことを究極の目標とする〈法華神道〉の、仏道神道昏冥の政治団体で、〈日蓮主義に基づく宗教右翼〉であったことは紛れなき事実としてあり、令和となった現在も、この団体は政治的右派組織として実在している。
「国柱会」の結成理念の「皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化する」(前出)こととは、つまりは「法華経に基づく皇祖皇宗の国体主義」のことである。それを解り易く、かつ口語体で云えば、田中智學の言葉と伝えられる「わが国の天皇に南無妙法蓮華経を唱えさせるのだ。そうすればわが国の軍人の一人一人も皆、「南無妙法蓮華経」と唱えながら銃を持ち敵軍と戦うであろう。さすれば我が国は如何なる大国と戦ってもその唱題「南無妙法蓮華経」の利益の力で必ず勝利するのだ」といった考え方をいうのである。
筆者は「原文」で「この法性の出所は何か」と書いたが、賢治が父政次郎へ宛てたこの書簡こそが田中智學「国柱会」の日蓮主義に基づく国体観から出現した言葉であり、若き賢治は田中智學の巧みな弁舌を疑わず丸呑みにしたのである。
此処で筆者が真宗学者として、この「法性(ホツシヨウ)」という仏教語に註を加えれば、「法性」とは大乗仏教でいう「真如」のことである。それは「一如」とも「如如」とも「如来」とも「如去」ともいうが、又「法界」とも「涅槃」とも「実相」とも「仏性」とも又「常住」ともいう同體異名の多義一語性の仏語である。しかし「法華経」をはじめ大乗経典の如何なる経典にも「殺戮する者も殺戮される者も皆等しく法性」等といった妄念の言語が出ることはない。佛陀の教法は、本来その全てが人間の無明(ムミヨウ)の闇を破りその黒闇から苦悩の人を救抜し導き生かす人類の燈であり、経の如何なる場面に於ても人が人を殺戮することを正当化する教理が佛陀の教法の中に説かれることはないのである。故に賢治が父宛に送った1918(大正7)年の書翰の中の「戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性」等と云った地上の修羅と地獄界の殺戮を教唆する言葉が釈迦の経説に出ることはないのだ。
賢治は、1918(大正7)年、日本女子大学在学中の妹としが発病して入院の折り、母と上京し、雑司ヶ谷に宿を取り翌3月まで看病した。この期間に、賢治は田中智學の演説を初めて聴く。田中智學は、弁説の名手だったと云われる(前掲、『田中智学』田中香浦著)。
父政次郎に宛てた同年の書翰の言葉が、当時の軍部と連動した「国柱会」創士者田中智學の「檄」であり、市民への巧みなプロパガンダだったことは疑いない。田中智學の聴衆を高揚させるその巧みな弁説中の「人を殺す者も殺される者も皆等しく法性」等といった言葉即ち前掲の「天皇が南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、兵隊も又「南無妙法蓮華経」と題目を唱えながら敵を殺すだろう。「殺す者も殺される者も皆等しく法性に御座候」等と、大乗仏教の核心的教法を虚仮にした田中智學の群衆を煽る為の妄言を『法華経』の教えと教唆され、それを信じた。その動かぬ「文証」が、大正7年、賢治が父政次郎に宛てて東京より発信したこの書簡の一行なのである。
既にして賢治の想念の一切は、「国柱会」田中智學の妄念妄想の怖ろしき蒼ざめた血に染めぬかれていたのである。
わが児賢治の言動を知って賢治の背後に迫りつつある斯くなる影を察知した父政次郎は、その刻々迫る影に対し、身を挺し命を賭けてわが児賢治を護らんとしたのだ。それが、賢治と父政次郎との間の夜毎の烈しい論争や口論と言い伝えられ、「淨土真宗と法華経」間の争いと言い換えられて伝えられたものの正体なのだ。
しかし、賢治は、1920(大正9)年11月「国柱会」に入会、1921(大正10)年、1月、「国柱会」を法華経の純粋信仰の組織と信じて疑わず、身を挺して自分を護らんとした父政次郎を踏み倒し、家出して上京し、下谷鶯谷の「国柱会」本部に単身で乗り込んだのだった。
この宮沢賢治の「国柱会」入会が、賢治の人生に於ける、悍ましき悲劇の始まりだった。賢治は、入会して間もなく、「国柱会」が自らが考えていた『法華経』の純粋信仰の信者団体とは異なることに気づいた筈だ。しかし、父を踏み倒して家を出た若き賢治は、「国柱会」が誤りであったことを肉親や周辺へ口にすることは遂に出来なかったのである。
「国柱会」入会前後の賢治内奥の身を焼く痛苦は、将に『法華経』に出てくる〈火宅〉の喩えのようだった。誰にも口にすることの出来ない賢治のその心奥を知悉していたのは、唯一、賢治の妹としである。としは親子の争いの唯中に在って、「国柱会」に飛び込むように入会した賢治の心奥と苦悩を知る唯一の肉親だった。妹としは賢治の後を追うように「国柱会」に入会したといわれているが、それは、とし自身の信仰の問題ではないことは明白だ。としは、兄賢治をそのような集団の唯中にそのまま一人にして置くことが出来なかったのだ。〈火宅〉の中の兄賢治の為に自らも身を焼かれつつもその〈火宅〉に入って彼に添うように彼を見護る唯一人の肉親だった。「兄さんを一人にしてはいけない!」その一途の念いで、妹としは兄賢治に従って「国柱会」へ入会した。
広範な教養と智見に基づく文藝評論家であるノートルダム清心女子大学名誉教授綾目広治は、本特集に寄稿した論文「「永訣の朝」の「あめゆじゆ」解釈をめぐって」中で、秋枝美保が『宮沢賢治の文学と思想 透明な幽霊の複合体―開かれた自己―「孤立系」からの解放』(朝文社、2004・9)を引文し、後に賢治が日蓮宗内の国家主義者たちへの嫌悪を語っていたことを論述している。
賢治のこの過誤が、代表詩「永訣の朝」のとしの今際の聲、「あめゆじゆ」に連関し、賢治がこの詩の中に四回リフレーンして記録し、しかも「あめゆじゆとてちてけんじや」を詩海の底に伏蔵し、未来の未知なる読者、未知の詩人へ秘託したという筆者の「あめゆじゆ」論、「妹としの聲無き絶唱」は、斯くなる妹としと兄賢治の心象光景を正しく一枚の明鏡の如く写し出す。
としの〈聲無き絶唱〉は、賢治の心奥の極み無き痛苦と賢治の堕ちた地獄の底のその底無き底に迄轟きわたっている。入会当初は会ってさえもらえなかった「国柱会」創始者の田中智學だったが、やがて賢治は田中智學個人への崇拝の念を深め、田中智學個人を信奉し、賢治の内部世界の神として崇め祭る詩や散文を記述するようになった。忠誠を誓う詩や言葉を記し、しかも彼は「国柱会」を題とする文語詩篇まで作って、「国柱会」と田中智學個人を賛美し、田中智學を自らの神として祭り、妄信する驚くべき言葉を彼は彼の詩作品の上に又散文の雑記帖の上に記載する人となっていった。
此処では文学とは何か、詩を書くとは如何なる営為なのか、詩と非詩の狭間、文学と現実と非現実の不可視の狭間にこの詩人の立つ廃墟の相と無残な〈永遠の荒野〉の相が立ち現れてくるのである。
次項に入る前に、賢治が聴講したという本願寺派の島地大等の天台本覚論や真宗大谷派の暁烏敏の『歎異抄』法話等の問題に触れておかなければならない。何故かといえば、彼等こそが少年詩人賢治を教唆した共犯者らであり、淨土真宗を語りつつ真宗の法義を謗る謗法の罪人であり、その重い罪業は賢治の斯くなる〈永遠の荒野〉を構成し、賢治が淨土真宗を離れる遠由となったからである。7.宮沢賢治生涯の悲劇の幕開け
――島地大等「天台本覚論」の講話と暁烏敏「歎異抄」法話とは何か
賢治の悲劇は、真(まこと)の「善知識」と遇うことが出来なかったことが遠因である。そこには戦争に向かう時代の不幸があった。
親鸞の『淨土和讃』に「善知識」についての和讃が一首収まっている。善知識にあふことも/をしふることもまたかたし/よくきくこともかたければ/信ずることもなほかたし (『浄土和讃』「大経讃」)
淨土門の他力の信を獲得するということは、親鸞自ら
夫(ソ)レ以(レオモンミ)レバ、信楽ヲ獲得スルコトハ如來選擇ノ願心自リ発起ス。眞心ヲ開闡スルコトハ大聖矜哀ノ善巧従(ヨ)リ顕彰セリ。
(『教行信證』「信文類」別序劈頭)とある如く、聖道の自心発起の信念に非ず、他力の信は「難中之難」であり、獲得し難く善智識にも遇い難く又教えることも聞くことも信ずることもなお難しい。つまり、この和讃は、淨土真宗の教法を過ち無く伝え、彌陀の淨土へとその人を教導する〈善知識〉に遇うことの困難さを讃述し、聞法(聞名)の機縁と真実信心を獲得することの尊く崇敬すべきことを讃述しているのである。故に、淨土教の教法を聴聞する門徒はもとより、本願寺派の学問僧たりと雖も、あくまでも一人の聞法の行者として命尽きる迄、一生涯、日々、日夜の生活の現場をひたすらなる我が〈聞法の道場〉として、日も夜も暁も夕べも隔てなく、聖教研鑽という聞法の生活を相続してゆくのである。
親鸞がいう「善知識」とは「アミタ」のいわれを如実讃歎して教え、南無阿弥陀仏の尊きことを知らしめ、他力の信を得さしめる如來のことである。故に親鸞は「善知識」に遇うことの尊さ、困難さを斯くの如く讃述したのである。
「国柱会」入会前後の〈宗教詩人〉としての賢治の人生は、将に茨の荒野を旅行く夕暮れに道を失った一人の旅人のようだ。既に彼の全身の瑕疵から幾筋も血が流れ落ちていた。
荒野を急ぐ賢治が血を流した全身の瑕疵と思われる出来事は、先ずは淨土真宗本願寺派の東北地区の開教拡大の為に岩手県盛岡の願教寺住職として派遣されていた島地大等との出会いであり、その大等の古天台本覚論の講話を聞いたところから始まる。
賢治にとっては、島地大等との出会いは、時代の不幸とも呼ぶべき不可避の事柄ではあったが、それは宮沢賢治生涯の悲劇の幕開けとなった。賢治は大正3(1914)年の秋、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読み、大きな感動を覚えたという。続いて大正4(1915)年8月、願教寺で大等の『歎異抄法話』を一週間聞いたという。だが、大等は賢治が当初、期待したような淨土真宗の真実信心を伝える善知識では決してなかった。
筆者は、「原文」ではそれを「島地大等は、本願寺派の高僧だが、天台本覚論の論者だった」と書いた。誤解を怖れずに云えば、大等は一時、東京帝国大学で講義をした本願寺派の高僧だが、「古天台本覚思想」を専攻し、本願寺派内では〈余乗〉と呼ばれる佛教学の学者だった。本願寺派の高僧と云っても宗祖親鸞が開顕した淨土真宗で『本典』と呼ぶ『顯淨土眞實教行證文類』(略称『教行信証』)一部六巻が説き顕す阿彌陀如來の本願海の衆生救済の原理や「獲得名号自然法爾」の他力思想や名号法の絶対的法力について知悉した学僧というわけではない。謂わば彼は、本願寺派の教団政策上の東北地方開教拡大の為に派遣され、願教寺住職として赴任していた僧侶だった。
本願寺派では当時も今も教学研鑽の基本として、教学が宗乗と余乗との二つに分立されている。宗乗(真宗学)は、浄土真宗の「本典」を中心に浄土三部経やその異訳をはじめとした阿弥陀如來の本願海を開顕した宗祖生涯の大量の全著作と、更にわが国に阿弥陀如來の本願を伝えた印度の龍樹・天親の二菩薩、中国の曇鸞・道綽・善導の三高僧、それにわが国の源信・法然の二高僧を加えた三国七人の高僧(これを真宗七祖又は七高僧と呼ぶ)の聖教と親鸞以降の覺如や存覺や蓮如等の歴代上人(これを列祖と呼ぶ)等の生涯の聖教を合わせた山為す聖教と共に更にそれ等の聖教を研鑽学究した「本典」が製作されて以降の800年に亘る学僧等の研究史上の、特に江戸期に出現した多数の傑出した学僧等に依る研究成果を隈なく学究し、淨土真宗の根本経典『大无量寿経』と根本聖教『教行信証』が詮すミダ如來の〈本願名号〉の一切衆生救済が為の絶対的法力を明証して祖意(宗祖の述意)を究明し、由って佛陀釈尊の経の正意を顕彰せんするものである。それに対して余乗(仏教学)は、本来、佛陀一代の経説の中の例えば華厳経や維摩經、勝鬘経、法華経、涅槃経等の研鑽研究を通して、阿弥陀如來の衆生救済の法力を釈迦一代経の上より顕彰せんとする学術方法である。島地大等は、この中の余乗の学僧であり、しかも古天台本覚思想を専攻する学問僧だった。
偶々、筆者が住職を務める北海道空知の新城峠の麓の町に建つ本願寺派法性山正信寺の経蔵を兼ねた「黎明學舎」の書庫には、昭和六年に出版された島地大等のすっかり変色した古書『教理と史論』(昭和6年11月、明治書院)や同じく昭和3年に出版された、茶色に変色し背綴じ部分が壊れた古書、暁烏敏の法話集『信の提唱』(昭和3年、発行・香草舎)が納架されている。
島地大等の書『教理と史論』には、大等が明治35年頃より大正15年頃迄の期間に学術諸誌に発表した古天台学を中心とした論考26編を一冊に収めた凡そ600頁建の著書だが、この書は所謂、学僧や研究者の為の書籍であり、賢治がこの書を手に取って閲覧したとは考えられない。しかし賢治が活動した大正初期より昭和初期の論考が収まっている為に、賢治が大等から聴いたという講義や法話等が凡そ如何ようなものであったかを推察することが出来るのである。
例えばこの書の中の、「日本古天台研究の必要を論ず」(同著118頁~139頁)と題した章は、淨土門の教学一般についての批判で埋められている。それらは宗祖親鸞の教学や源信・法然等の淨土門の念仏の法義に対し、中古天台の優位性を殊更誇示する為の、何等解説も例証も挙げない粗野で乱暴な否定的発言に終始するものだ。
▶︎親鸞の念佛は、師法然の念佛の極度まで純化されたものと見るべきであり、師に比して表面上、一層古天台との関係を知るべき材料に乏しいのであるが、他の反面よりその幽微を啓けば、意外にもその交渉の深切なるを認めざるを得ないであらう。一部六巻、嘗て一回だも教・行・證三重七個の名目に学ぶところなかりしやは確かに問題に値すると思ふ。特に彼が教學の中樞たる信心正因と云ひ、一念業成と云ふが如き、栂尾(トガノオ)高山寺の教學より影響せざるやを疑ふべき余地なきに非ずと云ふものありと雖も、當時叡山の教學が一念信解の教説を高調し、圓頓戒學に所謂一得永不失を唱導せるに想到すれば、思半ばに過ぐるものあらん。況や彼が晩年の説、久遠實成の思想は明かに古天台の本迹思想より得来れるもの、殆ど絶筆にちかき「自然法爾章」は、最もよくその教學の本覺的殊色を的示するものと見るべきで、彼と古天台との関係争ふべからざるものがある。総じて淨土念佛の法門は、高尚幽玄なりと見るべき理由もあれど、一面には極 め^鄙俗粗野とも見れないでもない。(後略) (『教理と史論』126頁~127頁)これが、賢治が偶々遭遇した本願寺派の仏教学者島地大等の天台本覚論一辺倒の驚くべき論断である。更に大等は、続いて「佛性論に関する二様の見解」と題した妄言を以て大乗佛教の「佛性論」の通説と称し、次の如く述べる。
▶︎神性と人性とを絶待に区別することなく、人性の先天内在として此に神性を認め、之に依つて人類の解脱向上を論じ、その絶待的開覺の可能を證明するものは大乗佛教々学の通説にして、所謂人性中に存する先天内在としての神性これを佛性と名け、これを論明する説これを佛性論と名く。 (傍点は筆者、『教理と史論』445頁)
大乗佛教の終経(ジユウキヨウ)と呼ばれる『涅槃経』の「一切衆生悉有佛性」に基づく「佛性論」は、淨土真宗に於ても親鸞が「本典」「行文類」の一乗海釈に引文し、「往生即成佛」論の因法としての「信心佛性」説を構成する本典『教行信証』や「淨土和讃」に於て展開する極めて重要な法義である。しかしこの大等の佛性説は、『涅槃経』の大聖世尊の真言や宗祖の論述を無視し、「神性と人性とを区別することなく」等と迷言を吐く。斯様な佛教学者が当時の本願寺派の高僧の中の一人と聞いて全く驚きを禁じ得ないのである。本願寺派の教学は、宗乗(真宗学)と余乗(仏教学)の二途があることは前記したが、本願寺派の内部では今も宗乗と余乗との間の熾烈な論義が交わされることが時としてあるが、しかし斯様な粗野な言葉で宗祖を論断し、「神性と人性」等といった驚く造語を使って大乗佛教の根本的教理である「佛性論」を惑乱する輩が派内に存在するという、本願寺派の悲嘆すべき負の現実が当時確かに存在したのである。
本願寺派の教学は、謂わば宗乗と余乗の鬩ぎ合いの中に、宗祖生涯の血の滲む教学の総体として『顯淨土眞實教行證文類』一部六巻やその外の聖教の親鸞教学の研鑽研究が八百年に亘って続けられてきた。
「宮沢賢治年譜」(『宮沢賢治と石川啄木』2012年、徳間書店)に依れば、賢治は1911(明治44)年、15歳にして「夏期仏教講習会に参加、島地大等の法話を聞く」等の記載がある。又更に1915(大正4)年8月、「北山の本願寺派の願教寺で島地大等の「歎異抄法話」を一週間聞く」との記載がある。
動乱の時代に生きた若き賢治が、島地大等の惑乱的な論説を一週間も聞かされたならば、恐らくはこの天才少年詩人も淨土真宗に対する幻滅の念いと共に胸底から込み上げてくる不信の念を禁じ得なかったと思われる。
筆者は是れを先に「時代の不幸」と述懷したのだが、賢治と同時代には本願寺派の近現代の教学史上代表的な宗乗(真宗学)の学匠で龍谷大学教授だった梅原真隆和上(1885~1966年)が居た。又余乗にも華厳学の大家湯次了栄和上(1872年~1943年)や『大乗起信論』研究の歴史的研究者望月信亭博士等が居た。しかし、縁無くして賢治は、梅原真隆や湯次了栄や望月信亭といった傑出した本願寺派の教学者等の法縁に遇うことはなかった。
かつて叡山の衆徒らによる卑劣な策謀に由って起こされた念仏停止の事件に由り、法友四人の斬首と師法然共々に親鸞も流罪に処せられたのが、「承元の法難」と呼ばれる念佛停止(ちようじ)事件である。親鸞がその事件後に血涙を以て筆を染め、以降凡そ40年の歳月を尽くして法然の直弟として著述し、師法然の淨土宗開宗宣言の書というべき『選択本願念佛集』(略称『選択集』)の専修念佛の法義の正統性を明証した聖教が、淨土真宗の「本典」『顯淨土眞實教行證文類』一部六巻である。
斯くなる親鸞の血の滲む聖教である「本典」を何等の例証もなく、又解説もなく、揶揄的な言辞を以て祖師を非難する島地大等如きの学僧が、本願寺派の内部に実在していたという事実は、篤信の念仏者、父政次郎に育てられた宮沢家の子弟の心を暗く塞ぐものだったに違いない。
次に真宗大谷派の学僧暁烏敏の『歎異抄』偏重の教学、『歎異抄』法門についても書き述べておく。
賢治が大正元年(十六歳)、父政次郞宛の書簡に「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書いたのは、明らかに暁烏敏の『歎異抄』偏重の講話を聴いた賢治の早計な領解(リヨウゲ)である。暁烏敏は真宗大谷派の教学者ではあるが、所謂『歎異抄』法門の学者だった。
今、筆者の机上に、暁烏敏の法話集『信の提唱』(昭和3年、発行・香草舎)が置いてある。この書は、筆者が住職を務める正信寺の経蔵を兼ねた「黎明学舎」の書庫の奥深くに以前より納架されていた。昨夜一夜かかって漸く同書を探し出し机上に置いたのである。
本書は、賢治が聞いたという暁烏敏の『歎異抄』法話とほぼ同一内容のものと筆者は直観した。一読で、驚くばかりだ。これが、真宗大谷派の教学者の説法であるということにである。そしてこのような無根拠の作り話めいたものを、賢治は講話としてこの暁烏から聞いたのだった。賢治生涯の悲劇の幕、荒野の人生は、ここから開いたのだと、先に島地大等の講義録に接した時と同じ感懐を筆者は抱いた。
暁烏の法話集『信の提唱』数頁を捲って、真宗の学僧ならば直ぐさま判ることは、大谷派の講師であるにも関わらず、親鸞の『教行信證』に基づく真宗学の理解が全くなされていないという事実だ。暁烏敏の言葉を、本書から抄出してみよう。
▶︎『法華経』の最後に記されている常不軽菩薩の一切恭敬の生活ぶりこそ信心の生活である。(67頁)
▶︎信心には、佛教の信心だの、神道の信心だのといふものはない。信心は宗派を超えたものである。(69頁)
▶他力廻向の信心は、宇宙間にたつた一つあるばかりだ。萬人に開けた心、それが信心なのだ。萬人に開けた心には、国境は ない、宗派もない。(70頁)
▶︎この唯一の信心、この一心には、世界各国の人を抱く廣さがある。何れの宗派をも抱く廣さがある。しかし今日の所謂宗 教団体なるものは、宗派的の信心を鼓吹してをる。(70頁)
▶︎佛教の信心、キリスト教の信心、真宗の信心、禅宗の信心、日蓮宗の信心、天理教の信心、金光教の信心、ローマカソリッ クの信心、プロテスタントの信心、フイフイ教の信心を、それぞれ宣伝する宗派がある、しかし、宗派を超えた、唯一の信心 を宣伝するところの宗派はない。(70頁)
賢治の生きた時代、真宗大谷派に於ては、哲学者清澤満之が本願寺の経蔵に入って蓮如が封印した『歎異抄』を発見し、親鸞の口伝書が見つかったとしてセンセーショナルな話題を提供し、『歎異抄』の一大ブームが起こった。この時期より大正・昭和の戦前・戦後の一時代に亘って、殊に大谷派に在っては清澤満之の弟子等が盛んに『歎異抄』の喧伝に努め、又世の作家たちも『歎異抄』に基づく親鸞伝やドラマを製作した。故に明治・大正期の淨土真宗の教法といえば、大谷派では殊更『歎異抄』であり、真宗の聖典と云えば、『正信偈』や『和讃』や蓮如の『御文章』よりも、いつしか『歎異抄』となった。
しかし、此処に淨土真宗の「本願力回向」の衆生救済が為の大悲の教法を誤解する落とし穴が隠れていたのだ。賢治十六歳時に父政次郞へ宛てた賢治の書簡にあった前出の一行の言葉は、その落とし穴を示唆している。余りに早計で容易な真宗の教法の領解であり、教法の中核となる「本願力回向」に対する賢治自身の無知と無理解の救われ難き異解を示す、浅薄なこと極まりなき認識である。筆者はそれを「原文」で「当時の彼の聞法の有り様が判る」と書いた。
親鸞が、42、3歳より90歳に至る迄、加筆の筆を休めず、完成させた淨土真宗の宗祖畢生の寶典、阿弥陀如來の本願力回向の衆生救済の法力を明かす聖教が浄土真宗の「本典」と謂われる『顯淨土眞實教行證文類』一部六巻である。親鸞の「本典」の製作態度を顧み、「本典」の解釈と親鸞の意を明らかとせんが為の宗乗の研鑽研究が今日迄為され続けているのである。若き賢治は、その「本典」の名もその存在すら知らぬ儘に、「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰」等と書いている。
『歎異抄』の全体の構成は、先ず「序」があり、次の第1条から第10条までは、親鸞自身の言葉で纏められ、それらは親鸞の訓示という意味から通常は「師訓篇」と呼ばれている。「師訓篇」の後に、親鸞の言葉と引き比べて、著者唯円の思いが述べられているが、これを「中序」と呼んでいる。又、この「中序」を承けて、唯円が感じていた「異義」を第11条より第18条まで具体的に書き述べている。この部分は「異義篇」と呼ばれている。この後に「後跋」があり、最後に付録的な形で、「承元の法難」の「流罪記録」が掲載されている。以上が、『歎異抄』全体の構成である。(参照・満井秀城和上『いまこそ読みたい歎異抄』法蔵館)
『歎異抄』は成立後、凡そ二百年に亘って人に知られることのなかった聖教だが、室町期に本願寺派八代目上人蓮如に由って本願寺の経蔵の中から発見された。
著者は不明だったが、現在の研究では、『歎異抄』文中に出る親鸞の弟子の名より「唯円」とされる。但し、著者名や唯円筆跡のある『歎異抄』は伝っていない。その為に蓮如の書写本が、現在、最古の『歎異抄』写本とされている。
蓮如は、この写本の奥書に、右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。
無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。 釈蓮如(花押)と記し、「無宿善の機」(信浅く機縁の薄きもの)への扱いを止めたのである。何故ならば信浅き者には、この書の大胆で逆説的言述が理解されず、却って謗法の機縁となる恐れがあると蓮如が見たからである。
やがて江戸期に大谷派の学匠香月院深励が『歎異鈔講林記』を書き、妙音院了祥は『歎異抄聞記』等の勝れた研究書を出版した。更に前述した通り、明治期に大谷派の哲学者清澤満之により再評価されたことを契機として、親鸞の「口伝書の発見」として世に周知されていった。賢治の伝記上に登場する暁烏敏という大谷派の学僧は、清澤満之の弟子で専ら『歎異抄』に基づく講話や法話によつて『歎異抄』の喧伝に努めた人ではあった。
しかし、前出の父政次郎宛の書簡の言葉「歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」等といった真宗の法義に対する早計な領解や不理解を窺わせる賢治の言葉は、『歎異抄』を囲む斯くなる大谷派の教学情況の中で生起したのである。
確かに『歎異抄』には親鸞最後の弟子唯円に対する口伝的文言が記録されていて、淨土真宗の貴重な聖教であることに変わりはないが、衝撃的な断言やパラドツクスが展開される書物であることには違いない。
しかしそこに親鸞が『本典』「教文類」で為した「総標綱紀」の文の「謹シンデ淨土真宗ヲ按ズル二二種ノ回向有リ。一者往相、二者還相ナリ。往相ノ回向二就キテ真実ノ教行信証有リ」といった阿彌陀如來の本願力回向の根本的原理が説き述べられている訳では決してない。淨土真宗の教法は、この総標綱紀の文の「往相廻向」と「還相回向」の往還二回向の法義である『顯淨土眞實教行證文類』中に著述されているのであり、淨土真宗の山為す聖教の中では『歎異抄』は、一夜で読了出来る短編であり、『歎異抄』を読めば忽ち宗祖親鸞が顕示した淨土真宗の肝要の法義「本願力回向の信心」が領受出来るというわけでは決してないのだ。しかし多くの読者は、一夜で『歎異抄』を読了して淨土真宗の法義が解ったと錯誤する輩が余りに多いのである。その錯誤は、決して門徒や一般の読者ばかりではなく、当時、大谷派では学僧たちまでもが錯誤し、親鸞の語ったことのない驚くような勝手な信心の理解を説き広めている。
それ故に一時、大谷派の教学の不毛が語られたが、清澤満之の弟子として知られる大谷派の学僧暁烏敏さえ、法話集『信の提唱』を拾い読みしただけでも、その惨状の相を窺えるのである。
「信心には、佛教の信心だの、神道の信心だのといふものはない」等と言った耳を疑う全く勝手な信心の領解は、所謂「異解」「異安心」そのものとしか語ることの出来得ぬ、真宗僧侶としては恥ずかしく、酷いしろものという外はないのだ。
宮沢賢治は、先掲の本願寺派の余乗の学者島地大等に依る古天台本覚論の支離滅裂な、「神性」と「人性」を融合させた奇怪な佛性論の講義に惑乱され、更に驚く間もなく大谷派の『歎異抄』法門の暁烏敏の悲惨な信心論を聞き、淨土真宗の法義への幻滅を抱いたことは想像に難くない。前掲の親鸞の和讃「善知識にあふことも/をしふることもまたかたし/よくきくこともかたければ/信ずることもなほかたし」の讃述通りの相であった。
本稿で名や例証を挙げることは控えるが、世間に名の通った作家や思想家や評論家が、親鸞の生涯を描く伝記や小説等や思想書等を閲覧する機会が多々あるが、彼等は自らの起草に先立ちて親鸞の宗教思想と人生を理解する為に親鸞が信じ崇めた〈阿弥陀如來の本願海〉〈名号海〉〈真実之利〉あるいはそれらの法義を顕す〈一乗究竟之極説〉〈海釈転成〉の法義等を学ぶ為に淨土真宗の根本経典『大無量壽經』(「大経」)や「淨土三部経」すら一度も眼を通したことさえない佛法の上では全くの無知無学といってよい知識人である。或いは「大経」が説き詮す御法とは、一体、如何なる智慧慈悲極まり無き世界であり、「彌陀の本願」とは如何なる「大慈悲」の「願海」なのか、〈名号願力〉とは如何なる絶対的〈法力〉をいい、〈不思議の佛智〉とは如何なるりきゆう力用をいうのか、「無明長夜」の黒闇から人間を救抜する弥陀の〈名号〉とは如何なる闇夜の〈カガリ篝ビ火〉なのか、親鸞が生涯掛けた他力真宗の教法とは如何なる佛法であり、法力なのか等といった事柄を知らんとした時に、親鸞の思想と言葉を知る為に用いられる彼等に於る格好の聖典が、一夜で読了出来る『歎異抄』なのである。しかしながら、『歎異抄』には右に挙げた阿弥陀如來の救済法としての根本的な問いに応える書では、必ずしも無いのである。
場合により、或いは読者に甚だ失礼なもの言いになるかも知れないが、彼等、現代日本の第一流の作家や文藝家・評論家・思想家たるを自認する多数の文筆家の中で、淨土真宗の根本聖典で宗祖親鸞が生涯をかけ、身命をかけて製作した『大無量寿経』の註釈書としての意義をともなうわが国の国宝文献『顯淨土眞實教行證文類』一部六巻を隈なく探究し、その上で親鸞に対する批評や論考や親鸞伝を執筆したという文藝家や論者は、筆者の知る限り、戦後日本の代表的評論家吉本隆明氏ただ一人ではなかったかと考えられる。
このような親鸞の「口伝書」の意味も持つ『歎異抄』を思案する時、現代より五百年もの先の室町時代に在って、本願寺の経蔵から『歎異抄』を発掘し、自らそれを書写して今日に伝え、その書写本の奥書に「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」と記して、「無宿善の機」即ち信浅き早計の者へ、たとえば宮沢賢治のような才気走った少年への閲覧を禁じた蓮如の言説は、蓮如が先見した未来の、つまりは現代日本の『歎異抄』を補漁する数多の作家や好奇の執筆者や或いは思想家、或いは真宗の教学者を名告りながら「本典」を研鑽することなく『歎異抄』に偏執する暁烏の如き僧侶たち、或いはまさしく賢治の如き若く早計な早とちりの誤謬や誹謗を見透した、それは例えば剃刀の刃先に写る闇夜の稲妻のような、蓮如の鋭く光る言葉だったことに考え至るのである。8.宮沢賢治の「国柱会」創始者田中智學への傾注
宮澤賢治には、田中智學を「大居士」と崇める「国柱会」と題した文語詩稿がある。
国柱会
外の面には春日うららか
ありとあるひびきなせるを
灰いろのこの館には
百の人けはひだになし台の上桜はなさき
行楽の士女さゞめかん
この舘はひえびえとして
泉石をうちめぐ繞りたり大居士は眼をいたみ
はや三月人の見るなく
智応氏はのどをいたづき
巾巻きて廊に按ぜり
(後略)この詩は長いので(後略)とするが、新しく建立された「国柱会会館」を祝って書いた賢治の文語詩稿と云われている。
「大居士」とは「国柱会」創始者田中智學へ向けたオマージュである。この詩を読んでも、冷たい大理石の感触のように筆者には感応するのものは何一つ伝わってこないのはどうしてだろうか。それは、この詩が言語表現の一形式としての「詩」の言葉として、無味無臭無意味であることを物語っている。「智応氏」とは、新潮文庫『新編 宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編)の「注解」に依れば、「国柱会」幹部の「山川智応」のことであるとのことだ。
又、同じひやりとした感触を筆者はかつて少年期に賢治の詩「雨ニモマケズ」を国語教科書で読んで受けたのである。筆者には何故こんな文章が詩であり、文学なのかが解らず、授業中に国語教師に挙手して、これは何故、「詩」なのですかと質問し、答えられなかったその教師に、それ以降、廊下等ですれ違う度に怖い視線で睨み付けられてきたという少年期の不快な思い出と共にその賢治の詩は筆者の脳裏に存在しているのである。本誌の今回の特集に寄稿して下さった文芸評論家久保隆氏の論考を拝見して、その理由が半世紀経った今、漸く能く解ったように思う。
更に『賢治全集』から賢治の詩や短歌を抄出してみることとしたい。
妹としが発病し、母親と共に東京の病院へ入院したとしの為に暫く東京に滞在した賢治は、その期間に軍部と組んだ「国柱会」創始者田中智學のプロパガンダの演説を聴き、その巧みな弁舌に引き込まれ、丸呑みにした言葉が、1918(大正7)年の父に宛てた書簡「戦争に行きて人を殺すと云ふ事も殺す者も殺さるゝ者も皆等しく法性に御座候」(傍点筆者)だったと前述した。「原文」では、筆者はこの「法性」の出所は何処か、と書いた。
「国柱会」入会後の賢治は、多数の詩を書き童話を創作したが、筆者は、此処では童話よりも直接的心象表現の形式である賢治のその後の詩作品や和歌等の言語に殊更注意すべきであると考える。
賢治には、殺す者と殺される者が水に流されつつ互いの屍肉を喰い合うかのすがたを描く「ながれたり」という眼を背けたくなる、読む者をぞっとさせる悲惨な詩作品がある。その詩作品を次に掲出しよう。ながれたり
ながれたり
夜はあやしくおちい陥りて
ゆらぎい出でしは一むらの
いん陰きよく極せん線のしひ盲あかり
またけいくわう蛍光の青らむと
かなしく白きへんくわう偏光の類
(中略)
青ざめし人としかばね屍 数もしら
水にもまれてくだり行く
水いろの水と屍 数もしら
(流れたりげに流れたり)また下りくる大筏(おほいかだ)
まなじり深く鼻高く
腕うちくみてみめぐらし
一人の男うち座する
見ずや筏は水色の
屍よりぞ組み成さる髪(かみ)みだれたるわかものの
筏のはじにとりつけば
筏のあるじまみ瞳赤く
ほほ頬にひらめくいかりして
わかものの手を解き去りぬ
げにながれたり水のいろ
ながれたりげに水のいろ
このあかつきの水のさま
はてさへしらにながれたり
共にあをざめ救はんと
流れの中に相寄れる
今はかへ却りて争へば
その髪みだれ行けるあり
(対岸の空うちただ爛れ
赤きは何のけしきぞも)
流れたりげに流れたり
はてさへしらにながるれば
わが眼はつかれいまはさて
ものおしなべてうちかすみ
たゞほのじろの川水と
うすらあかるきそらのさま
おゝ頭ばかり頭ばかり
きりきりきりとはぎりし
流れを切りてくるもあり
死人のかた肩をか噛めるもの
さらに死人のせを噛めば
さめていか怒れるものもありながれたりげにながれたり
川水軽くかゞやきて
たゞすみや速かにながれたり
(そもこれはいづちの川のけしきぞも
人と屍と群れながれたり)
あゝ流れたり流れたり
水いろなせる屍と
人とをのせて水いろの
水ははてなく流れたり
(新潮文庫 新編 宮沢賢治詩集 天沢退二郎編 349頁-354頁)ここには川や海をながされてゆく無数の「青ざめし人と屍」が描かれ、流れてくる「筏」も近づけば水色の屍で組み合わされた筏だというのである。その屍もよく見ると頭や肩を食い齧るまだ生きた屍もいて、そうされた死人は眼を覚まして怒るのだという、そのような屍が無数に流れていると賢治は書いているのである。
生きた人間の飢渇からの人肉喰いは、小説で幾編か読んだが、賢治のこの詩は流れてゆく無数の屍が流されながら人肉を食いあう姿がスケッチされているのだ。此れ等の詩は、詩作品とはいえ「国柱会」入会後の賢治の心的内奥が斯くなる錯乱的想念に支配されていたことを物語るものであるだろう。此処には生きた人が死人の肉を喰うのみならず、屍さえもが人間の死肉をむさぼり食う姿が描かれているのだ。
これが当時の彼の心象を流れ漂い続けていた悍ましく眼を背けたくなる修羅の「心象スケッチ」なのだ。
この詩こそはまさに、宮澤賢治という詩人の修羅の内奥の「心象スケッチ」であり、「国柱会」田中智學のプロパガンダに惑わされた少年詩人宮沢賢治の空虚な、〈永遠の荒野〉の相なのである。彼の内奥の〈荒野〉を予感し悲嘆する苦悩の父政次郎へ向けて「殺す者も殺される者も法性に御座候」等と語ること自体が、〈永遠の荒野〉の相なのだ。これが〈宗教詩人〉宮沢賢治が語る「宗教詩」であるとでも彼は、そして彼等は語るのであろうか。
彼自身を初めとして、賢治を信奉する詩人や論者は、彼を日本の代表的な〈宗教詩人〉と呼ぶが、それは彼の立ち尽くす心奥の〈永遠の荒野〉から眼を逸らした結果ではなかったのか。宮沢賢治の詩と人生を語るならば、決して「国柱会」入会という彼の拭い難き生の事実、人生の病根から眼を逸らしてはならないのである。
次に賢治の短歌作品を見てみることとしたい。青びとのながれ
ああこはこれいづちの河のけしきぞや人と死びととむれながれたり
青じろき流れのなかを死人ながれ人長きうでもて泳げり
青じろきながれのなかにひとびとはながきかひなをうごかすうごかす
うしろなるひとは青うでさしのべて前行くもののあしをつかめり
溺れ行く人のいかりは青黒き霧とながれて人を灼くなり
あるときは青きうでもてむしりあふ流れのなかの青き亡者ら
青人のひとりははやく死人のただよへるせなをはみつくしたり
肩せなか喰みつくされししにびとのよみがへり来ていかりなげきし
青白く流るる川のその岸にうちあげられし死人のむれ
あたまのみひとをはなれてはぎしりし白きながれをよぎり行くなり
(宮澤賢治全集Ⅰ 築摩書房 218頁)
この歌群「青びとのながれ」の末尾の一首を見てみよう。
「あたまのみひとをはなれてはぎしりし」とは、人体から腐れて離れた「頭部」が川を流されてゆくのが見えるが、よく見ると、その頭部は実はまだ生きていて、頭部だけ「歯ぎしりしながら」川面をよぎりゆくのが見えるというのである。
前掲の詩作品「流れたり」とほぼ同内容の修羅=殺戮の心的光景が描かれていて、「死人が川を流れつつ別の死人の背に喰らいつく」相がうたわれているのである。彼の言う生々しく眼を背けたくなるこの歌群が彼のいう「心象スケッチ」というものの数々である。これが宮沢賢治の和歌と言われるものの正体である。
筆者は「原文」で賢治の「修羅」について、「修羅」とは殺害のことである。9年彼は花巻界隈を托鉢し、これみよがしにうちわ太鼓を叩いて題目を高唱して廻り、父や周辺を驚かす。政次郞は念仏者として知られた町の名士だが、彼は故意にその尊厳を踏みにじり、しん身く口い意を以て父を殺した。修羅は裏切りによ縁り生起する。「恨みの心は修羅となる」(童話「二十六夜」)とは、『涅槃経』(迦葉菩薩品第12)の「未生怨」に拠って彼自身をいう言葉だ。父王頻婆娑羅(ビンバシヤラ)を裏切り殺した仏教史上の修羅、嵐の中の芭蕉樹の如く髪振り乱しおのの慄く阿闍世(アジヤセ)が彼である。五逆の彼の苦悩は生涯身から離れることはない。
と書いたが、河出書房新社刊『文芸読本』の、堀尾青史篇「宮沢賢治年譜」の記述の方が、筆者の右の記載よりも、この日の夜、町の名士としての父政次郞の尊厳を敢えて踏みにじり、身口意の三業を以て父を殺し、修羅と化した賢治の狂気が、花巻市の夜闇のしんとした静けさを背景に鮮明に浮かび出て、賢治が叩くうちわ太鼓の音までもが聞こえてくるようだ。
大正9年(1920)年24歳10月、日蓮竜口法難650年の夜、花巻町内を唱題して歩く。当時、日蓮宗の寺院はなく(日蓮宗花巻教会の設立されたのは昭和3年である)町の人々が異様の感を持ったのは、勿論、最も困惑したのは父その人であろう。日蓮主義信仰団体国柱会へ入会し、御曼荼羅をうけ、宮澤家には淨土真宗と日蓮宗が同居することになる。親戚の関徳弥もついで入会し、国柱会発行の新聞天業民報を表へはり出し、法華経の輪読会を行う。12月にはうちわ太鼓を叩いて寒修業に歩いた。
(昭和56年河出書房新社刊、堀尾青史篇『文芸読本』「宮沢賢治年譜」)「国柱会」入会後に賢治は友人保阪嘉内に宛てた書簡に次のように書いている。
(前略)今度私は
国柱会信行部に入会致しました。即ち最早私の身命は
日蓮聖人の御物です。従って今や私は
田中智學先生の御命令の中に丈あるのです。 謹んで此事を御知らせ致し
恭しくあなたの御帰正を祈り奉ります。
(中略)(「国柱会」の)田中先生に妙法が實にはっきり働いているのを私は感じ
私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ
今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶對服従致します。
御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも志那の内地にも参ります。
乃至東京で國柱會舘の下足番をも致します。それで一生をも終ります。(後略)
大正9年12月2日
(傍点筆者、表記は原文通り。『宮澤賢治全集』第11巻、築摩書房)又、本誌の特集に寄稿された文学博士沓掛良彦氏や文芸評論家久保隆氏の論考にも出て来るが、当時の国語教科書に続けて掲載されたという賢治の詩といわれる短文「雨ニモマケズ」については、この文章を以て賢治の「人生の菩薩行」をあらわすものと見、又賢治を以て「大乗の菩薩」と見る説を為したのが思想家梅原猛氏の宮澤賢治論である。
次項では、この問題について検証し、筆者の認識と見解を述べておく。9.思想家梅原猛の宮澤賢治論
梅原猛は、1966年12月、宮澤賢治論「宮澤賢治と風刺精神」(岩波書店『文学』)を発表した。梅原猛のこの論文は、一言でいえば、たいそう奇妙な論考と思える。何故ならば、梅原がこの論考を初めから次のように論述しているからだ。
宮澤賢治の批判精神は現在地球上を支配しているヨーロッパ文明に対する東洋的な慈悲の精神からの強烈な批判なのである。(中略)何千年にわたる人類の文明に疑問符をなげかけ、そしてその文明の根本的変革によって新しい慈悲の文明を地上に現出させようとするものである。
(中略)賢治は近代文明の深奥を見つめていた人のように思われる。近代文明の奥の奥には人間中心主義の殺害精神が宿っている。その殺害精神に、賢治は慈悲の精神からの厳しい批判の目を、なげかけるのである。
(中略)大正12年、多くの日本の思想家たちは西洋文明を輸入することに急で、誰もその限界について議論する人はなかった。しかし賢治はこの文明の中に含まれた深い病気をただ一人見ていたのである。近代文明の背後には人間の生命というものへの畏敬をもたない殺害精神がかくれているのではないか、そしてこのように殺害を文明の原理とする文明は、やがて近い将来にはほろびるのではないか。
(中略)トインビーの云う西洋文明に対する東洋文明の挑戦、殺害の文明に対する慈悲の文明の対決、その挑戦と対決が賢治においてはじめて始められたのである。という大言荘語を賢治へ与えたところから書き始められている。賢治の詩や童話の作品が、「現在地球上を支配しているヨーロッパ文明」に対する「東洋的な慈悲の精神」という大括りの宮沢賢治論の中でも、賢治の人生と思想を論じるとき、決して忘れてはならないのは、菅谷規矩雄の指摘通り、大正10年の1年間に在った事柄と生起した出来事であると考えられる。実にこの一年間に宮沢賢治の人生の上で在った事柄と生起した出来事とは、それこそが宮沢賢治の日蓮主義に基づく過激な右派組織「国柱会」入会問題という我等宮沢賢治文学の読者が決して忘れてはならない、否、決して眼を逸らすことが赦されない、宮沢賢治論の嶮しくそして長く高くそそり立つ暗夜の峠なのである。
この期間の彼の精神内部の嵐吹きすさび廃墟と化したすがた相(は、この詩人の心の奥の、更にその奥に果てなく広がる〈原野〉とも〈荒野〉とも名付けるべき、それはまさしく筆者が本論の題として掲げた〈荒野の旅人〉の〈荒野〉の相である。この〈荒野〉とは、大正9年10月、父政次郞を身口意の三業を以て、我が父を尊厳を踏みにじって殺戮し、大正10年1月、更にその父親政次郞を踏み倒して家出し、単身で上京し、東京鶯谷の『国柱会』本部へ飛び込むように入会したこの詩人の内部精神の荒廃と狂気の相をいうのである。
大乗仏教では人間の為す行為の中で最も重い罪業を「五逆謗法」と呼んでいる。人間の身口意の三業が為す行為の中の最も怖ろしき重罪であり、それが賢治が犯した「五逆謗法」の罪であり、それは修羅道を突き破って三悪趣の地獄界中の最も怖ろしき無間地獄へと堕ちてゆく深重の罪業が「五逆謗法」であるとされている。
「五逆」の罪について親鸞は、『教行信證』「信文類」に、中国の仏教学者慧沼の『最勝王經疏』を引いて、「三乗の五逆」についての次のように説述している。一には故(ことさら)に思うて父を殺す。二には故に思うて母を殺す。三には故に思うて羅漢を殺す。四には倒見して和合 僧を破す。五つには悪心を以て佛身より血を出す。恩田に背き福田に違するを以ての故に、之を名けて「逆」と為す。
(読み下しは永田文晶堂版『真宗聖典』)
とある。「故(ことさら)に思うて父を殺す」とあるのは、「故(ことさら)に思うて」とは、この「五逆」は身業口業の営みのみならず、意業に於てなす営みでさえ五逆の重罪であることを教示しているのである。つまり、たとえ自分の手足を以て為すことがなかったとしても、人は皆自らの心のなかの営みである意業に於て、怖ろしきこの重罪を犯しているのだと教示しているのである。
もし仮に、宮沢賢治に対する論考からこの年の父親を踏み倒して家出し、単身で「国柱会」へ入会した事実に眼を塞ぎ、宮沢賢治の文学と人生の意義を語るならば、何れの論者も水を得た魚のように彼の廻りを自在に廻り、如何様にも彼を讃歎して語ることが可能なのである。たとえば本誌のこの特集に寄稿された論者の中でも、筆者の詩人宮沢賢治に対する論考てある「原文」について「批判的」と難じた、某「地方誌」のフリーライターであることを自ら名告られる某菅野俊之氏は、何故か賢治の「国柱会」入会や或いは日蓮主義に基づく国体思想について、一言も触れることがない儘、トシが「賢治を介して法華経と邂逅し光明を見出す」としていることには、客観的な宮沢賢治論としての根本的な錯誤があるのではないかと思われる。
又同じく、大正十年にあった事実をその論考から排除し取り除くことで成立させた梅原猛氏の大言荘語を以て為された「近代ヨーロッパの殺戮の文明」対「東洋の慈悲の思想」といった大構造を設定した大鉈的切口の論考は、それ自体が含む賢治を「大乗の菩薩」と仕上げる為の作為が仄見える序論であり、その結果、彼の詩や童話等の作品群が「菩薩の慈悲心」の表れた文学と崇め、賛美することもまことに為し易きこととなったはずである。
現代日本の名のある思想家でかつ哲学者を自認する梅原猛氏にして、岩波書店発行の学術誌「文学」誌上で発表する論考であるこの「宮澤賢治と風刺精神」という原稿紙五十枚にもならんとする論述の中で、一言も「国柱会」の名すら上げず、又賢治の大乗の慈悲の思想は日蓮ではなく、天台の祖最澄の教法である等といった、日蓮より最澄へのすり替えと思われる言説は、地方誌の無名ライターではなく、影響力を持った日本思想界の大人梅原猛氏にして如何なるものであろうかと思われるのである。
先ず、梅原氏が日蓮よりも最澄の大乗思想に依ったという説論は、宮沢賢治論の自説の中から何としても日蓮主義といった過激な風光を排除したいという思惑である。それは、賢治が大正10年に入会した「国柱会」という過激な政治右翼の名を出したくなかったからである。日蓮主義という当時賢治が没頭した過激な宗教思想の名を出さず、又「国柱会」という政治組織の名を論考より排除したのは、この会の名称の「柱」という言葉の拠り所を読者に覚られないためである。「国柱会」という会名は、大正3(1914)年、「国柱会」創始者田中智學が、日蓮主義に基づく国体主義思想の政治組織であることを顕示するために、日蓮の著作『開目抄』に収まる日蓮自身の言葉「我、日本の柱とならん」(傍点は筆者)の「柱」を以て、田中智學は日蓮主義に基づく国体主義の政治的右派の会名を「国柱会」と名付けたのである。
従って、「国柱会」と聞けば、日本思想史や国史を知悉した人ならば、直ぐさま『開目抄』の日蓮の言葉を想起し、日蓮主義の排他的で過激な組織をイメージするのである。梅原猛が論考の中に「国柱会」という会名や日蓮の名を上げようとしなかった所には、梅原猛氏の大正10年の賢治の出来事を論考から避けようとする思惑が見え隠れするのである。
大正10年1月の賢治の「国柱会」入会問題に触れることもなく、謂わば「国柱会」という宮澤賢治の文学や賢治の人生の病根であり、負の財産ともいうべき日蓮主義に基づく政治右翼の「国体主義」を叫ぶ過激な存在を遠巻きにして、この「国柱会」から一歩でも離れた位置から宮澤賢治論を成そうとした所には、梅原氏の一体如何なる意図に依るのであろうか。梅原氏がもし存命ならば、直接対面して氏へその意味を窺うべき事柄だったと思われる。だが梅原氏は2019年1月、逝去されておられる。
しかしながら、最近、筆者は詩人で戯曲家の川端隆之が、『現代詩手帖』「宮沢賢治特集」(一九九六年十月号)の誌上で「賢治が昭和八年三十七歳の若さで夭折したことは幸福だったと言えるだろう。なぜなら、(略)もう少し存命していたならば、賢治自らが意識的に戦争協力詩を書いていたであろうことはほぼ確実だからだ」との述べ、(略)更に「賢治をみだりに絶讃したり神聖化したりするのは非常に危険なことだ」と述べる批評の言葉に出遇った。
まさしく〈宮沢賢治〉という一枚の〈自問の鏡〉に映る賢治のすがたとその言葉は、現代日本に生を得て今を生きる我々が、言語とは何か、言語表現とは如何に我と汝の狭間に今を生きる人間の思想の意味を問い糺し、文学とは如何にして国家の意志との抗いに生きる一筋の隘路を切り開く手立てなのか、次章に於ては、菅谷規矩雄の登場を得て、文学という言語表現の思想的意義を探究し、「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮沢賢治」の結論へ向かいたいと思う。10.文藝評論家菅谷規矩雄の宮澤賢治論
菅谷規矩雄は、『宮沢賢治序説』(1980年、大和書房)の「あとがき」に次の如く、詩人宮澤賢治の文学行為の思想的意義を総括するが如き、熾烈な論考を記述している。少し長いが、此処に抄出しよう。
(前略)文学という行為が、究極のところ、どれだけの思想の意味をはたしうるか。――という問いのまえに、ありうるこたえはただひとつであると、わたしはかんがえている。――〈神の死〉を明証すること。この世界のあらゆる〈神〉をとりわけおのれの内なるいっさいの〈神〉を、死にいたらしめること――それ以外のどんな倫理的当為も、文学には課せられていない。
この情況は、宮沢賢治においては、まったく逆に受感されていた。宮沢は文学じたいを、この世界にたいする倫理的当為たらしめんとした。文学を〈信〉のことばたらしめ、それによってことば自体を〈信〉たらしめようとした。〈神〉と〈ことば〉とのあいだには、わたしたちの〈意識〉という不信の深淵が渦まいている。宮沢は〈神〉と〈ことば〉とのこの格別に〈こども〉という観念をみちびきいれることで〈信〉を回復しようと企った。言いかえれば、わたしたちの〈意識〉という不信に、正面からいどむというよりは、不信をいっさい回避したところに生ずる空白すなわち〈無信〉の場に、かれのことばを充たしたのである。それゆえ、まさにわたしたちは虚をつかれるのだ。わたしたちの〈意識〉、いいかげんすれっからしの唯物論リアリズムではありえても、このリアリズムは決して明証された無神論たりえているわけではないからである。そこに、少なくとも宮沢のイノセンスが成立しうる思想の場があり、情況があった。此処には、宗教詩人宮澤賢治の〈宗教〉と〈詩=言語表現〉との見えざる狭間を覆う薄闇を解明する菅谷規矩雄の真摯で明晰な透徹した批評の眼力が齎す、詩人宮澤賢治に纏いついた幻想の衣服を剥ぐ、彼の詩と言葉と思想とその意識とに対する根源的な批評と批判が書き述べられているのである。
菅谷規矩雄の言葉によって、もう起つ事も死ぬことさえも出来ぬ絶体絶命の〈宮澤賢治〉が此処に裸にされた儘、眼前に横たわっているのだと言ってよいだろう。文学とは何か、詩とは何か、此処に裸となって投げ出された〈宗教詩人宮澤賢治〉を通して、文学に関わる全ての人々、否、詩や文学者を自認する詩人や作家等、言語表現者の一人一人が、〈文学という言語行為の思想的意味〉を問うて行かねばならなくなったのである。
筆者は此処で一人の詩人、一人の文学者として自らの立場、自身の立ち位置を明らかとしなければならなくなった。
筆者の言語表現行為の主なる形式は、十代の少年期より半世紀を超えて今も変わらず、〈俳句形式〉である。但し筆者は、趣味的季節詩としての日本の詩歌伝承の季語季題を排し、〈人間の総体〉〈生の全体性〉を主題とする口語で書く〈反定型の定型詩〉を〈実存俳句〉と名付けて俳句形式に依る詩歌文学を書き続ける現代俳句作家であり、日本文藝家協会に所属する文藝評論家の一人である。
何故、俳句なのかと云えば、俳句の「定型」には拭い難く日本民族の呪詛と国家の意思が流れているからである。この民族の呪詛と国家の意思に抗い闘う詩形式が俳句故に、言語表現の形式としての俳句を筆者は選択したのである。それは、定型を以て定型に流れる国家の意思と抗い闘う身命を掛けた、たたかいの形式が俳句だからである。これを筆者は、「実存俳句」と命名し、「反定型の定型詩」と呼称するのである。〈反俳句〉〈反定型の定型詩〉〈反季反定型反結社主義〉を名告って既に半世紀が過ぎた。
筆者は今、〈十七文字の世界藝術〉の旗を掲げ、松尾芭蕉辞世に於ける〈無季・非定型・口語表現〉と十代の日の寺山修司を継承し〈十七文字の銀河系〉と叫んで、文学という自己の内部の見えざる敵と闘う、それが筆者の偽らざる日本文学における作家としての立ち位置であり、一人の言語表現者としての存在である。
日本伝統の五七調の国家の意思を反映した和歌形式の〈五・七・五・七・七〉より〈七・七〉の下半身を切り落とした不具性の詩形式が筆者の言語表現の俳句形式であり、それを筆者は〈実存俳句〉と名告ってきた。俳句定型五・七・五の〈十七文字〉には未だ天皇の美意識と共に国家の意思が流れているのである。この不具性の詩形式を唯一の武器として自己の内部の果てなき相対化を果たし、自己の内部の見えざる敵をこそ斬る、その形式が俳句形式であり、筆者の言語表現の営為である。
菅谷規矩雄は、文学というものの思想的営為の意味を明かし、文学の営為は、一人一人の自己の内なる〈神〉を殺すことだと述べた。自己自身の相対化の果てに自己の内なる世界の神を突き崩し、自己の内部の「神の死を明証」することだと述べた。
吉本隆明と共に戦後日本に出現した批評家菅谷規矩雄が、「宮澤賢治文学」を論ずるに当たって、自らに問い、自らが為さんとする「宮沢賢治論」の序説として明示した論考の結論と言ってよいのである。
戦後の日本文学の批評の大地に起ち上がった一人の批評家の手による宮澤賢治の胸から背裏まで刺し貫く鋭く尖った一本の耀く槍、これが菅谷規矩雄の宮沢賢治論である。しかし、この論考が収まる菅谷の『宮沢賢治序説』の本論には、宮澤賢治の詩や言語表現とはなにか、彼の詩や文学の営為の思想的当為は何かについての具体的な批評や批判の言説があるのではない。ただこの『宮澤賢治序説』の「あとがき」にその冒頭からこの鋭い批評の槍先が顔を出すのである。
宮沢賢治の詩人としての人生とは何か、菅谷の説論とは逆の、自らの内部の「神の死の明証」に非ず、自らの内部世界に〈人間の神〉を創り上げて祭り、その神を信奉し、その神の命を承けた修羅たちが人が人を殺す殺害の様相や流れてゆく屍同士が更に人肉をむさぼり食う相を詩や和歌と称して描く、当時の軍部と結託した「国柱会」田中智學に惑わされて自己を失い、詩や和歌にまで、屍の頭が腐れて身から離れたのに未だ少し生きていて歯ぎしりしつつ他の屍の腕や背の肉を喰う、餓鬼道のそのすがた相を「心象スケッチ」と呼んで作った多数の詩篇や和歌の類を「法性」という名の大乗佛教の核心的言語で包みこみ、更には父政次郎を身口意の三業を以て平然と抹殺した「五逆謗法」の此の世の地獄の底の更なる底無き地獄の面相を「雨ニモマケズ」と善人顔した宗教詩人となりすますというのが、この詩人の若くして行きついた文学世界ではなかったのか。11.結びに代えて――「永訣の朝」の「永訣」とは何か
この詩の題は何故に「永訣の朝」なのか、というこの詩作品「永訣の朝」の「永訣」の語に秘めた賢治の元意は何か。
この詩の究極の問題といって良いこの詩の題に秘められた作者の本意について、本論の結びに代えて、筆者の思惟と論考の一端を書きとどめておく。
賢治と賢治の妹としは、前述した如く、若く幼き日より宮沢家の仏前に正座して浄土真宗の経を暗誦していたという。そしてその経が、「小経」とも呼ばれる『佛説阿弥陀経』であったことは既に述べた通りだ。この経には、この経だけに詮述される〈阿弥陀〉の謂れを説く名義段があり、アミタの謂れ即ち「光明無量」「壽命無量」についての詮述があると筆者は先述したが、この経のみの所詮は、実は名義段の外にも多々存在し、その中の一つがこの詩の題「永訣の朝」の〈永訣〉に連関するのである。
この経の上段には「諸上善人倶会一處」という経文が出てくる。賢治も妹としも、浄土真宗の念佛者ならば、この経文の意は知悉していたはずだ。「諸上善人(諸々の上善の人)」とは、前記した信心歓ぶ念佛者のことである。念仏歓ぶ人は皆倶に「倶会一處(倶に一處に会う)」とは、我等は皆、軈て必ず阿弥陀如來の浄土に生まれる故に、阿弥陀如來の前で再びの出会いを果たすという詮述が、この経にのみ説かれる「諸上善人倶会一處」という経文の意である。
故に、浄土真宗の法義を歓ぶ念仏者には、「永訣」という二文字は存在しない。もし仮に我が児に先立たれるようなことがあったとしても、念仏者は決して「永訣」という言葉は用いないのである。ではその時、何と言うかというに、「今生の今一たびの別れ」というのである。何故ならば、必ずかならず、念仏歓ぶ者は軈て阿弥陀如來の浄土に生を得、その如來の下で我が児との再びの出会いを果たす教法が浄土真宗の念仏の法だからである。
故に念仏者には「永訣」という言語は存在せず、「今生の今一たびの別れ」というのである。
ところで賢治は、この詩の中で妹としの言葉として、
「(Ora Ora de shitori egumo)」(あたしはあたしでひとりいきます)
という一行を刻印している。
この一行の言葉は、この詩の題名「永訣の朝」の「永訣」と連関している。この一行は、妹としの無聲の絶唱「あめゆじゆとてちてけんじや」(兄さん、あの日のお念仏にたち帰って下さい」の懇請に反し、妹としと異なる自分の道を選び、その道をひとりでゆくという賢治に対して、正しき訣別の意を含む言葉だ。賢治は、大乗佛教で最も重罪とされる「五逆謗法」を犯した罪人ゆえに、自力聖道の教えで助かることは遂にない。元来、自力聖道の教法で解脱して成佛を果たし、大涅槃のさとりを得た衆生は、実に佛陀釈尊の外には一人も無しと謂われる。日蓮主義の「国柱会」が信奉する『法華経』は、その自力聖道の教法の代表的経典であり、それ故に如何に行を励めども佛果を得、賢治自身が成佛を果たすことは決してないのである。
皮肉にも賢治が、16歳の少年期に父政次郎へ宛てた書簡で「『歎異抄』の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」等と語ったが、その『歎異抄』の第一頁、即ち第一章に説かれるのは、「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」とある浄土真宗の本尊アミダ如來の本願の機(救済の目当て)が、賢治の如き大乗佛教で最も救われ難き凡夫や罪人であることを説く章である。此処に出るミダの本願の救いの目当て「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」とは、正しく彼、賢治自身を的示する言葉だった。
「罪悪深重」とは深い井戸に落ちた重たい岩や石の如く、如何なる手立てを尽くしても助かるすべ無き深重の罪の身であることを顕す言葉だ。又「煩悩熾盛」とは火のついたオキ熾ビ火の如く瞋恚(怒り恨み)にまかせて燃え立つ我が身の煩悩のことだ。「煩悩熾盛」の燃えさかる瞋恚の炎で我が父政次郎を焼いた賢治自身の救われ難き罪業を顕す言葉だった。
親鸞が弟子唯円に口伝したという「弥陀の本願」とは、深く真っ暗な井戸の底に落ちた罪人が、もう如何にしても助からぬとさとったその時に、ひとすじ遠くから聞こえてくる〈マカセヨカナラズスクウ〉のミダの名聲であり、南無阿弥陀仏の名号である。このミダの名聲は、幼少の頃に父や妹と共に賢治も、宮澤家の仏前で読誦していた『正信念仏偈』の中の「重誓名聲聞十方」の「名聲」の謂れであり、浄土真宗の根本経典『大無量壽経』上巻に収まる偈文「重誓偈」の「名聲超十方」の経意を、親鸞が「聞」の一字を添え、斯くなる救われ難き凡夫・罪人をこそ助けずにおかんと誓うアミダ如來の大悲の聲を聞き戴くが浄土真宗の信心であることを偈述したのである。
妹としが〈あたしはあたしでひとりいきます〉というミダ如來の浄土への道は、本願の大道故に浄土へ直ちにまっすぐ到る道だ。それに対して『法華経』の説く自力聖道の教法とは、たとえば既に枯れ果て荒れ果ててしまった廣大な荒野の中の道無き道である。謂わば、彼はその〈永遠の荒野〉に於て日の暮れかかった夕べに道を失った一人の旅人の如く、既に夜闇のひたひたと襲いつつある三界を流転し続けて、軈ては知らず知らずの間に修羅道を越え、畜生道を越え、餓鬼道をも越えて、遂には地獄の果ての更なる地獄、即ち無間地獄の底無き地獄のその底の底へと到り着くのである。
遂に妹としと彼とは未来永劫にわたって値い遇うことはなき故に、妹としは「「(Ora Ora de shitori egumo)」(あたしはあたしでひとりいきます)」と言ったのである。
妹としとの永遠の別れを覚悟した彼は、この詩の題を自らの言葉で「永訣の朝」と銘記したのである。だが、この妹としと賢治の関係は、此処で終焉するということでは決してなかった。浄土真宗の根本経典『大無量寿経』下巻には「今得値佛、復聞無量寿佛聲、靡不歓喜、心得開明」(今佛二値イ、復タ無量寿佛ノミコエ聲ヲ聞クコトヲ得テ、歓喜セザルナ靡シ、心開明ヲ得タリ)」(読み下し文は大江淳誠・大原性実監修、永田文昌堂版『真宗聖典』に依る)という如來大悲の経文が説かれている。人は皆、過去に於てアミダの本願を聞く大悲の宿縁に遇っていたのである。故に今佛に値遇し復た再びアミダ如來の名聲を聞くことを得、信心歓喜するのであるという佛陀釈尊の教説である。賢治ととしは、父政次郎を善知識として幼少の頃、既にしてアミダ如來の大悲の名聲に遇っていたのである。
賢治ととしは、幼少の頃から聞法していた浄土真宗の教えの中に大乗仏教中、浄土真宗にのみ伝来する「往相廻向・還相廻向」の二廻向の教法があった。それは中国の高僧曇鸞(476~542)がアミダ如來の人間救済の哲理哲学を明かす著作『往生論註』の中に撰述される往還二廻向の教法を親鸞が『教行信證』の骨格的法義として捉えた浄土真宗の根源的教法であった。その『教行信證』「教文類」劈頭に親鸞は「謹ンデ浄土真宗ヲ按ズル二、二種ノ廻向有リ。一者往相、二者還相ナリ。往相ノ廻向二就イテ真実ノ教行信證有リ」(「教文類」「総標綱紀」の文)と記述し、更に和讃に於ては次の如く讃述した。安楽淨土にいたる人/五濁悪世にかえりては/釈迦牟尼仏のごとくにて/利益衆生はきわもなし ( 『浄土和讃』)
彌陀の浄土に生まれた人は、再び此の土にかえり来て、苦悩の人々を釈迦の如くに教化し名号を以て助くるという親鸞が和讃でうたったこの大慈悲の教えが、大乗仏教中で浄土真宗のみに伝わる「還相廻向」という如來大悲の苦者救済が為の究極的法義なのである
ミダの浄土に生まれ、無上覺とも大涅槃の極果とも謂われるミダ同体のさとりを得た人は、直ちに還相の菩薩となりて此の土へかえり来りて、一切衆生の為の大悲のみ親となりて、父の如く母の如く影の如く苦者に添いつつ離れず救いたもうというのである。
親鸞が『教行信證』「證文類」で説く「還相廻向」とは、斯くなる如來大悲の苦者救済が為の一乗究極の教法をいうのである。されば、妹としは真宗の真実信心を得た念仏者なりし故に、ミダの浄土に生まれるや忽ち還相の菩薩となりて此の土へかえり来たって、苦者救済が為の大悲の無限活動をなすのである。親鸞はこの還相のいわれをこうも和讃している。南無阿弥陀仏をとなふれば/観音勢至はもろともに/恒沙塵数の菩薩と/かげのごとくに身にそへり (『浄土和讃』)
日の暮れかかった果てなき〈荒野の旅人〉宮澤賢治の傍に、還相の菩薩となった妹としはかげのごとく添うて離れず、たとえ無間地獄の果てなき果てに到りたりと雖も荒野を行く旅人賢治の為の同行となりて、ミダの名聲を称えつつ、賢治を何処迄も何処迄も護念し続けてゆく。
その妹としの称えるミダの名聲が〈あめゆじゆ〉であり、〈マカセヨカナラズスクウ〉の弥陀如來の一切衆生を召喚するミコエ聲なのである。
この〈あめゆじゆ〉の名聲が、三世十方世界に轟き亘り、下は果てなき地獄の底の底無き底にまで轟き亘っている。筆者は、ここまで宮澤賢治とは誰か、彼は如何なる詩人で、如何なる言語表現者だったのかを問い続けて来た。
前述したが、詩人で戯曲家川端隆之が、「賢治が昭和8年に37歳の若さで夭折したことは、幸福だった」「なぜなら、(略)もう少し存命していたならば、賢治自らが意識的に戦争協力詩を書いていたであろうことはほぼ確実だからだ」(前出、1996年『現代詩手帖』10月号)という言葉を以て、宮沢賢治の人生37年を指摘したが、これはそのままが、筆者の「一人の詩人、一人の人間としての宮沢賢治」を問う「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮沢賢治」の総結論であると云って相異ないのである。
詩を書くとは如何なる行為なのか、〈宗教詩人宮沢賢治〉とは如何なる言語表現者だったのか、彼の詩言語のその一行一句の悉くが、言語表現の思想的意味と非意味とを突き付けてくるのだ。何時の日か、新たな〈宮澤賢治論〉を書く機縁が訪れるかも知れないのだが、この〈自問の鏡〉に写る彼の偽らざる姿態を筆者は取り敢えず、「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮澤賢治」と名付けたのである。
2022年10月16日、錦秋の峠の木々に埋もれ 黎明學舎にて 西川徹真記す。
■『編集人』より
斎藤冬海
『銀河系通信BLOG版』「異界の戦場Ⅳ」の冒頭に掲げた論文「妹としの聲無き絶唱―『春と修羅』「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉とは何か」は、2013年12月宮沢賢治学会イーハトーブセンターより原稿依頼を受けて執筆し、2014年3月31日発行の『宮沢賢治学会 イーハトーブセンター会報』第48号の巻頭に掲載された西川徹郎の書き下ろし宮沢賢治論である。
この論文は、宮沢賢治研究の先駆的研究者として知られる明治学院大学名誉教授・詩人・仏文学者で「宮沢賢治学会」最高役員の天沢退二郎先生の推挙に由って「宮沢賢治学会」より執筆を依頼されたものと西川徹郎本人は語っている。『銀河系通信BLOG版』の発信に当たって、BLOG版発信人として一言付言すれば、『宮沢賢治学会会報』の巻頭に収載されたこの論文は、原稿用紙四枚の分量ながら、今日まで為されてきた数多の宮沢賢治論とは一線を画す視点からの真宗学者・詩人西川徹郎による賢治と賢治論への斬り込みであり、賢治研究史上初めて、妹としの末期の聲〈あめゆじゆ〉を雨雪とする永年の定説を覆し、阿弥陀アミタの梵語Amitāyus(アミタユス)とする驚天動地の新説であり、日本各界を震撼させ、大きな反響を呼んだ。
西川徹郎記念文學館の学術誌『西川徹郎研究』第三集では、当該論文によって新たな局面を迎えた「宮沢賢治論」の現在を、当代日本の各界の代表的表現者即ち、日本哲学会元会長・日本学術会議哲学委員会元委員長・東北大名誉教授野家啓一、国際日本文化研究センター名誉教授鈴木貞美、東京大名誉教授菅野昭正、東京外語大名誉教授・文学博士沓掛良彦、文芸評論家久保隆、日本比較文学会元会長・作家・武蔵大学名誉教授私市保彦、ランボー全詩集翻訳者・作家・ミュジシャン鈴木創士、日本ペイター協会元会長・愛知大学大学院元教授・英文学者伊藤勳、学術博士・文芸評論家小林孝吉、ノートルダム清心女子大名誉教授・文芸評論家綾目広治、SF作家・医学博士渡辺晋、俳人・文学博士中里麦外、詩人・文芸評論家雨宮慶子、[総括]文學館學芸員・作家・編集人斎藤冬海等、文学・詩歌・思想・哲学・評論等各界の代表的著述者十四名が、各氏の「西川徹郎の宮沢賢治論」への渾身の論評十四編によって開示せんとするものであり、更に西川徹郎自身が本特集の編纂に当たって新たに書き下ろした「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮澤賢治、「永訣の朝」の〈あめゆじゆ〉とは何かⅡ」百十枚は、賢治研究史上、初めて賢治を覆う菩薩や聖人(セイジン)と云った聖性の衣裳を剥奪し、彼の生の苦悩と実存の在処を明らかとしたのである。詩人とは如何なる〈生の惨劇〉を生きる存在なのか。西川徹郎即ち西川徹真の「荒野の旅人―〈自問の鏡〉としての宮澤賢治」は、飽く迄も一人の詩人、一人の人間としての宮澤賢治を究明した衝撃の論文と呼ぶほかはない。
それは諸家の十四篇の精密な宮澤賢治論と共に北天に燦めく一条の〈宮澤賢治銀河系〉である。 -
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