-
銀河系通信ブログ版 2022年04月04日
永遠の夭折──少年詩人西川徹郎
西川徹郎句集『決定版 無灯艦隊─十代作品集』解説
2007年5月27日の旭川西川徹郎文學館開館を記念し、沖積舎より刊行されたのが、本書、西川徹郎句集『決定版 無灯艦隊-十代作品集』である。
第一章は『無灯艦隊』205句、第二章は『定本無灯艦隊』15句、第三章は「銀河系句篇」876句、全1916句を収める。
第一章・第二章は、『西川徹郎全句集』(2000年、沖積舎)を定本とし、第三章は同書に収められた未刊句集「東雲抄」より、『無灯艦隊』所収の作品と同時期に書かれた1963年から1974年までの作品を抄出した。「十代作品集」とは、俳句の詩人西川徹郎が、本格的に作品を書き込み始めた10代の日に、既に今日に至る西川文学の資質が決定されていたことを示す。〈無灯艦隊〉とは西川の生地新城峠の絶景を海原に喩えたもの。
西川徹郎の処女句集である『無灯艦隊』の初版本は、1974年3月20日に初期の一時期所属していた同人誌『粒』の発行所より刊行され、今日既に33年が過ぎたことになる(註、本論執筆の2007年現在)。しかし、初版から13年後の1986年10月20日には、同時代随一の俳人で、いち早く本格的な西川論「蓮華逍遙―西川徹郎の世界」(1988年、『桔梗祭』伴載。冬青社刊)一百枚を書く宮入聖が発行人となり冬青社から、『定本無燈艦隊』(『西川徹郎全句集』所収の際に『定本無灯艦隊』と改められた)が若干の改編を施されて刊行された。又同時代の俳人攝津幸彦が栞文と帯文を執筆し、攝津は「現代俳句をリードする」西川の「この時期の多作とその充実ぶりが自然と伺える」と記した。
更に、『定本無燈艦隊』から14年後の2000年7月30日に沖積舎より刊行された『西川徹郎全句集』(以下『全句集』)には、『無灯艦隊』『定本無灯艦隊』として収録されているから、本書は実に、四度目の『無灯艦隊』の出版となる。
又、西川徹郎の初めて刊行されたエッセイ集のタイトルは『無灯艦隊ノート』(1997年、蝸牛社)と名付けられ、西川の青少年期の詩人としての感性の全てがエッセイと俳句作品との交響から立ちのぼる希有の一冊となっている。
恰も「海女が沖より引きずり上げる無灯艦隊」(『定本』)の句の如く、時を隔てながら、繰り返し私たちの眼前に突き付けられる『無灯艦隊』とは一体如何なる詞華集なのか。
沖に帆がてのひらに飯粒が昏れ
流氷の夜鐘ほど父を突きにけり
夜明け沖よりボクサーの鼓動村を走る
便器を河で洗いしみじみ国歌唄えり
京都の橋は肋骨よりもそり返る
鶴の愁いのいもうとたちと月の出待つ
男根担ぎ佛壇峠を越えにけり
父の陰茎の霊柩車に泣きながら乗る
暗い地方の立ち寝の馬は脚から氷る
不眠症に落葉が魚になっている
巨きな耳が飛び出す羊飼う村に
黒穂ふえ喪がふえ母が倒れている
海峡がてのひらに充ち髪梳く青年
さくら散って火夫らは耳を剃り落とす
首のない暮景を咀嚼している少年
剃刀研ぎと冷やされし馬擦れちがう
父よ馬よ月に睫毛が生えている
蝙蝠傘が飛ぶ妙に明るい村の尖塔
黒い峠ありわが花嫁は剃刀咥え
骨透くほどの馬に跨がり 青い旅
剃った頭に遙かな塔が映っている
星を盛る皿水陸両棲する僕ら
遠い海の痩せためくらを担いで帰る
月夜は白い館を蝶が食べはじめ
こんな綺麗な傘をはじめて見た祇園
晩鐘はわが慟哭に消されけり
京都の鐘はいつしか母の悲鳴である
癌の隣家の猫美しい秋である
屋根裏を野のように歩き 独身
馬の瞳の中の遠火事を消しに行く
なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん
屠鶏の流す泪は一番星である
屠馬の視線と出会う氷の街外れ
屠馬は七夜一睡もせず星数え
無人の浜の捨人形のように 独身
月夜轢死者ひたひた蝶が降っている
いっしんに産婆とのぼる鬼神峠
ひそかに皿は配られてゆく月の館
無数の蝶に食べられている渚町
群れを離れた鶴の泪が雪となる
海女が沖より引きずり上げる無灯艦隊
(註・抄出作品は『無灯艦隊』『定本無灯艦隊』『決定版無灯艦隊─十代作品集』に依る)
手元にある『定本』から、任意に抜き出してみた。集中名句が犇めき合い、抄出が到底不可能に思われる程である。
西川徹郎の存在を真っ先に絶賛し「天才詩人」と最初に呼んだのは、西川徹郎の初学時代の師で、北海道から発行される当時全国でも屈指の新興俳句系の俳誌「氷原帯」の主宰でかっての新興俳句の旗手と称ばれた細谷源二であった。西川徹郎のただならぬ才気を感受した細谷源二の詩人としての眼力が、西川徹郎をそのように呼ばせたのである。
細谷は、道立芦別高等学校在籍中の、未だ16歳にも満たない少年西川徹郎に、「氷原帯」新人賞を与え、西川徹郎は高校生俳人として俳壇にデビューした。
『無灯艦隊』初版本の作品執筆の頃の西川徹郎は、京都龍谷大学への進学の喜びも束の間、政治の季節に翻弄されて本来の姿を失った大学に絶望して帰郷、しかし、将来の見通しもつかない儘生家である寺の仕事を見様見真似で手伝う日々にも憔悴していた。
息子を励ます為、父母は、高額の費用を捻出して『無灯艦隊』の自費出版を実現させたのであった。長く病床にあった父は、この半年後に逝去する。結婚の破綻と寺院の後継とにより、西川徹郎の青春時代は慌ただしく終わりを告げた。
又、『無灯艦隊』当時の俳壇の状況は、前衛俳句の退潮しつつあった時代とも言える。「ホトトギス」の有季定型を超えんとした戦前・戦中の新興俳句は国家の弾圧により壊滅し、戦後の前衛俳句は思想と表現との乖離による行き詰まりから伝統回帰へと向かっていた。その状況下、趣味的な〈季語季題〉を排し、〈新興俳句〉の壊滅を越え〈前衛俳句〉の閉塞を超えて人間存在の内なる聲に即く幻想的イメージと超現実の詩句が乱舞する、後年西川徹郎が〈実存俳句〉と命名する『無灯艦隊』の、〈生の全体性〉を主題とする新たな定型詩文学の出現は、当時の俳壇や詩歌界のみならず、広く文学界へ強い衝撃を与えたのである。
赤尾兜子・島津亮・三谷昭・佐藤鬼房・寺田京子・仲上隆夫・佐藤鬼房・前田鬼子・阿部完市・林田紀音夫・堀葦男・新妻博等、当時の俳壇や詩壇の錚々とした作家達が悉く絶賛した。
佐藤鬼房はその年俳人協会新人賞を受賞した伝統からの鷹羽狩行(後の俳句協会会長)の登場と比肩し、革新からの西川徹郎の登場を「天狼」に執筆した。
北海道大学で教鞭を執っていた俳人近藤潤一は、長文の墨書の私信を徹郎へ送って賞賛し、「北海道新聞」の「道新俳壇」の選者で「俳壇回顧」欄を担当した浄土真宗本願寺派の僧侶としても西川を見守っていた土岐錬太郎は、この年の回顧を「新しい前衛の誕生を祝す」(傍点筆者)という最大級の賛辞で『無灯艦隊』の登場を迎えた。
1993年2月に東京四季出版から刊行されたアンソロジー『最初の出発』には、「『無灯艦隊』自選100句」と、その解説として俳壇の重鎮三橋敏雄の「出藍の句集」という文章が収録されている。ここで三橋は西川が最初の師というべき細谷源二の文体を「さらなる可能性の追求者として、これを発展的に継承」しているとし、『無灯艦隊』を「出藍の誉れの第一歩を示した句集」と呼んでいる。
新興俳句の命脈を担って戦後俳句の中心に立っていた三橋敏雄のこの言葉は、西川の俳句が既に新興俳句自体を超えたことを意味している。
又、2002年9月、54名の西川徹郎論を集めた『星月の惨劇-西川徹郎の世界』(茜屋書店)が刊行されたが、その中で、寺山修司の若き日の友人で俳人・評論家宗田安正は「西川の実存認識からくる定型におさまりきらない〈不在〉と〈死〉と〈性〉、実相としての〈修羅〉のイメージの圧倒的な湧出は、先人の方法を通用させない。例えば師でもあり、実存にこだわった赤尾兜子の、一句中に二つの異なるイメージをぶつけ合って第一、第二のいずれのイメージとも異なる第三のイメージを創出する〈第三イメージ論〉のような前衛俳句の方法も押し流してしまう」と述べ、西川俳句の方法が、前衛俳句を超えなければならなかった必然性を明らかにした。赤尾兜子と西川徹郎の関わりを熟知した同時代の俳人大井恒行は、それを「超出への志」と呼んだ。
『無灯艦隊』とは、西川の最初の句集にして、今に至る西川の文学世界そのものなのである。真昼間に明らかに見える艦隊ならば、「無灯」とは言わない。夜闇を進む艦隊だから無灯と言うのである。見えない筈の闇の中のものをまざまざと現出させるのが〈無灯艦隊〉という言葉であり、それが文学というもののはたらきである。
自らの文学世界を〈無灯艦隊〉と名付けて、俳句の詩人西川徹郎は出発を遂げた。
西川は、次々と己の俳句思想を明らかにし、実践していく。1984年には、個人文芸誌「銀河系つうしん」(2006年「銀河系通信」に改題)を創刊。反季・反定型・反結社主義を標榜して「反俳句」の旗を掲げる。
1994年には、既成の俳壇の賞の悪弊を離れた真の俳句文学の顕彰のために「銀河系俳句大賞」を創設する。第一回の受賞者は、同世代の俳人谷口愼也。(第二回は柿本多映・攝津幸彦、第三回は平敷武蕉)
谷口愼也は1995年『虚構の現実-西川徹郎論』(書肆茜屋)を書き下ろし、西川が主張する〈実存俳句〉の思想を明快に論じた。
1997年西川は第九句集『天女と修羅』に「〈実存俳句〉宣言」ともいうべき後書を認め、俳句革命の旗幟をいよいよ鮮明にした。〈実存俳句〉についての西川自身の論は、2001年7月発行の「國文學」7月号(學燈社)掲載の論文「反俳句の視座-実存俳句を書く」や第50回口語俳句全国大会(2005年、口語俳句協会主催)記念講演録「口語で書く俳句―実存俳句の思想」(「俳句原点」117号/「銀河系通信」第19号所収)に詳細に論じられる。
一言で言えば、人間存在を問い続ける実存的思索者の俳句である。それは、「タスケテクレ」という火急の声、人間の真実の声を書き留めることであり、それは口語表現にならざるをえないことを、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を引いて論じた。
俳人まつもと・かずやは、『星月の惨劇』所収の「実存俳句を視野に」という評論で、芭蕉の句を「人間の実存への、生への意志」と読み直している。
俳人伊丹啓子は、人間の実存について「やがて訪れる惨劇と添い寝をしつつ生を愉しんでいるのだ」と述べる。俳人・評論家皆川燈は、「あらゆる場所は異界に通じ、人は家という荒野をさすらっているかのようだ」と述べる。
又、評論家菱川善夫は、西川の第四句集『死亡の塔』(1986年、海風社)栞で、西川俳句の意図を「在ることの残酷さを、生の異形性をもって照らし出そうとする」と指摘している。
1999年第10句集『わが植物領』後記において西川は、「私の俳句はその悉くが、実存俳句であり、その句集は実存俳句集である(略)それは私の少年期の作品を収めた第1句集『無灯艦隊』から本書に到るまでの、凡そ38年に及ぶ私の文学的営為の悉くが、江戸俳諧の松尾芭蕉や小林一茶等を遙かなる先達とする実存俳句の文学正統の興業であった(略)」と述べている。
詩人鶴岡善久は、1984年7月に刊行された西川徹郎第三句集『家族の肖像』の栞文において、集中の一句「祭あと毛がわあわあと山に」を挙げ「従来の新興俳句、前衛俳句がついに到達しえなかった一極地をこの句は占めている」と書いた。
「ホトトギス」の有季定型の伝統俳句を超えんとした新興俳句・前衛俳句をも超え、日本の俳句史の全体性をも超えて、西川俳句の至った「一極地」とは、どのような場所であろうか。
1988年7月、細谷源二の直弟子である俳人越澤和子が個人誌「秋桜COSMOS」の別冊として『西川徹郎の世界』(秋桜発行所、以下『秋桜COSMOS別冊 西川徹郎の世界』)を刊行する。
吉本隆明・菅谷規矩雄・安井浩司・乾裕幸等、評論家・詩歌俳人35人が、西川俳句を論じた。後に芥川賞作家となる藤沢周は、この一冊を取り上げて「図書新聞」に「天才詩人の現場を目撃する一冊」と書評している。
同書の中で宮沢賢治研究の第一人者菅谷規矩雄は、「五七五への、果てしない異化を介して以外に、日本語のリズムの本源へ、ゆきつくみちはない。(略)ことばが韻律に執する理由はただひとつ‥‥リズムとは、詩の発生の現前(プレザンス)にほかならない。この、発生の瞬間‥‥というスリルをふくまなければ、俳句も、短歌も、むろん現代詩も、韻律として存在する理由はない」と述べ、詩の発生の現前する場として西川俳句の世界を開いて見せた。
戦後最大の思想家で評論家である吉本隆明は「西川徹郎さんの俳句」という一文を寄せ、「ほんらい的にいえば、現代音楽の様式でしか成し遂げられそうもない内的なモチーフが、西川さんの意識と無意識と、それを理念化しようとする思想のなかに、根深くあって、それを言葉の表現でやり遂げようとしているのではないか。(略)楽音の非意味性でしか言い現わせないものを、言葉にしようとするところからくる格闘ではないかと思えてくる」と述べ、文学の可能性の極北に挑む詩人の「悲劇的な運命」を指摘した。
吉本は2000年『全句集』収載の解説として、新たに西川徹郎論「西川俳句について」を書き下ろしている。その中で、俳句史の中の西川の位置を「俳句の詩人として最長不倒の人」としているのも新興俳句・前衛俳句が到り着くことの出来なかった表現の極北に西川が至ったことを述べているのである。
『西川徹郎全句集』刊行記念論叢として2002年9月に編まれた『星月の惨劇-西川徹郎の世界』(茜屋書店)は、梅原猛・森村誠一・笠原伸夫・松本健一・立松和平・稲葉真弓等各界の代表的な表現者53人が西川を論じている。
その中で文芸評論家笠原伸夫は西川俳句の世界を「現代俳句の一極北」と言い、文芸評論家小笠原賢二は「極北の詩精神」と呼んだ。
小笠原は、西川俳句の「表現がある臨界点に達した時」のカタカナ表記に注目し、その「極限にまで至らんとする文学的行為」の類似が認められる作家として、宮沢賢治・吉田一穂を掲げている。吉田一穂の詩の一節「うつそみ現身を破って、鷲は内より放たれたり」を引いて、「この「現身」を西川流に言い変えれば「実存」である。現実存在、事実存在の短縮形である実存とは、有限な人間の主体的存在形態を意味する。詩や文学とはつまり、この有限の「実存」から一羽の想像力の「鷲」を放つことである」と述べ、西川文学の飛翔力を指摘した。現実には西川徹郎は、日本の極北というべき北の果ての地新城峠に在住しているが、文学は、その生の空間を超え飛翔するのである。
評論家小林孝 は、「未出現宇宙の消息-西川徹郎と埴谷雄高」と題して、「形にあらわれない存在の宇宙」を文学でしか創出できない「未出現宇宙」と名付けた埴谷雄高の文学と比較し、「西川徹郎の俳句から、存在の深部と通ずる、そんな未出現宇宙の消息が伝わってくるような気がしてならない」とする。
そして、『無灯艦隊』の句を掲げて「短い俳句の宇宙のなかに、具体的なものに非現実が、実在に非存在が、ともに鋭い精神の緊張感をもって対峙しつつ存在している。(略)西川徹郎が自ら名づける「実存俳句」とは、そんな具体と抽象、現実と非現実、実在と非存在、俳句における定型と反定型という険しい前人未踏の矛盾的峡谷から生まれているのではないか」と書く。
又、小笠原賢二も小林孝 も、西川の文学世界に宮沢賢治の詩や『銀河鉄道の夜』を重ね合わせて論じているが、1990年10月刊の「銀河系つうしん」第11号において、俳人・評論家で、当時東京大学総長だった化学者で俳人有馬朗人も「西川徹郎と宮沢賢治」という評論を寄せて、銀河へ飛翔する作家の想像力を指摘している。
俳人遠藤若狭男は、「花鳥諷詠では見えてこぬ」「痛切な生存の光景をいいとめている」西川の実存俳句を、「近現代の俳人の誰もが為し得なかった見事な成果」と称し、カフカの『変身』や三島由紀夫の『近代能楽集』への連想を書き留めている。
西川俳句は、その「極北の詩精神」の屹立によって、俳句史のみならず日本文学の歴史に未知の領域を拓く文学的成果であることが、これらの論文から明らかになったのである。
作家稲葉真弓は、『全句集』を「人間の記憶の中に無意識に眠る「無限樹海」への入口」であると言い、「言葉」が持つ無限の力が「異界へ私を連れていく」としている。言葉をもって表現する者への最大の賛辞である。
立松和平は、「西川徹郎はこの世とあの世の境界線上に身を置き、あの世にいってきては言葉を紡ぎだす」表現者であると書く。又、「昭和49年26歳の第1句集『無灯艦隊』での出発の時から、すでに西川徹郎は完成されたスタイルを持っていた」と指摘する。
評論家松本健一は、「俳句はかれにとって方法というより、自己の無意識領域、あるいは形無きもののところにまで踏み込んでゆく場なのだ」とし、「俳句は、かれにとって形無きものを書記させる、畏るべき物語りの場となったのである」と述べた。松本は、1994年12月刊の「銀河系つうしん」第15号においても「形無きものを・・西川徹郎の俳句」と題して、西田幾多郎の哲学や夢野久作の小説『氷の涯』を引き、西川の創作の根源の力に迫っている。
作家森村誠一は、西川俳句に接した時の驚きを率直に述べながらも、それが「言葉の解放」であり、「実存俳句とはあらゆる約束事から解放された自由な表現の中に、自分の真の存在を、あるいは存在証明を確認しようとする営みである」ことを指摘、「実存とは、まず思想であり、問題意識であり、主体性の確立であり、既成(エスタブリッシュメント)に対する反旗である」とした。又、森村は、西川俳句には「月」が多いことを述べ、「第一句集『無灯艦隊』は非常に象徴的であるが、無灯の最高の照明は月光である」と言っている。
暗夜を航行する無灯艦隊であるが、その漆黒の船体には目映い星月の影が射し、甲板には一筋の銀河が映っている。人間の実存を照らし出す月と銀河の光を、確かに私たちは西川の文学世界に見ているのである。〈無灯艦隊〉は、黒闇ではなく、黒闇を照らす光を描く文学世界なのだ。
俳人・評論家の研生英午は、1997年に刊行された西川徹郎第9句集『天女と修羅』の解説(栞)として「生死の乾坤」という西川論を寄せている。そこで研生は、「僕たちの存在の深部では、唐草のように、生と死が混濁した混沌(カオス)のような世界を形成しているのかもしれない。(略)しかし「実存俳句」とは、むしろこうした生死の円環を断ち切り、自らの生の一回性に賭けようとする世界を展開することではないだろうか。(略)死と対峙し、修羅として生きつつも、平常において、没我の道へと至る、生命体としての生死の過程そのものではないだろうか」と述べる。
「極北の詩精神」とは、言葉による表現の可能性を追求し続けるものであると同時に、実存を描きつつ実存を超克する、人間がこの苦悩の生を生き抜くための思想なのである。
それは、『西川徹郎全句集』刊行の一年後である2001年に刊行された『西川徹郎全句集 普及版』の後記に、西川が幼少時より親しく聴き続けてきた親鸞の和讃に触れて「『西川徹郎全句集』に収蔵された私の実存の俳句山脈が非連続の連続性の相を顕現しているのも、かくなる親鸞の和讃と無縁であるとは誰人にも言うことは出来ない。「今現在臨終」の我が身の実存に根拠しつつ且つ実存を超克する言葉、それを敢えて私は「実存俳句」と呼称して来たのである」と記している通りだ。ここに西川文学の思想と親鸞の佛教思想とは通底している。
研生は、『星月の惨劇』において、西川徹郎の十代の頃の俳句に触れている。1993年に刊行された高橋愁の一千枚の書き下ろし西川徹郎論『暮色の定型』(沖積舎)には、西川が俳句書き始め、「北海道新聞」の新聞俳壇や細谷源二の「氷原帯」に投稿していた句、又芦別高校の文芸誌「シリンクス」に発表した句等が丹念に収集されており、西川論を書く者にとって貴重な資料となっている。研生は、それに拠って十代の西川について、「夭折したフランスの作家レーモン・ラディゲの『肉体の悪魔』の再来かと思わせる、初学の頃の西川の天才ぶりは、誰もが舌を巻くものだった」と書いた。
『星月の惨劇』には、西川徹郎の文学世界を全て〈無灯艦隊〉として論じる作家・評論家伊東聖子の「銀漢抄/『無灯艦隊』というラング言語」が収録されている。伊東は、ランボー、ロート・レアモン、トリスタン・ツァラ、ジャック・ラカン等を引いて西川俳句を論じ、次のように言う。「『西川徹郎全句集』は、たとえばダンテの薔薇の曼荼羅といわれる『神曲』に比すべき大業としてあり、『無灯艦隊』はその、煉獄編として想定され成立したものではないか?」
奇しくも同書所収の越澤和子の西川論「惨劇と北の砦-天才詩人西川徹郎について」には、未だ高校生であった西川徹郎が詰襟の学生服姿で出席していた砂川市公民館句会において呟くように言い放ち、越澤を震撼させたという、「ぼくはダンテの『神曲』の「煉獄篇」を書き続けてゆくのだ。苦悩する人間が身を引き裂かれながらも生き続けてゆかねばならぬその姿を、ぼくは俳句で書いてゆくのだ」という少年の日の西川の言葉が書き留められている。
西川徹郎の文学世界の射程にはその出立の当初から〈世界文学としての俳句〉が入ってていたのだ。
『星月の惨劇』には哲学者梅原猛も『無灯艦隊ノート』についての論考を寄せている。「その俳句もさることながら、むしろ俳句の説明のために書かれた随筆により美しい詩を感じた。(略)特に祖父の死後、祖父にそっくりな人間が家にやってきたことを記した「訪問者」、及び蝙蝠傘に生ける蝙蝠という恐ろしい鳥の霊を感じた「蝙蝠傘」など、ボードレールの散文詩を思わせるほどであった」と締め括られている。梅原のこの指摘は、世界詩としての西川文学の領有を指摘するものである。
俳人高橋比呂子は同書において、西川徹郎とカフカとの類似について心理学や神智学を駆使して詳細に論説し、「無意識こそが意識的存在を、生命をささえている。そしてこの悪魔的な無意識に創出されるべき神の子が潜んでいる」としている。高橋は、西川の俳句世界を展望し「まさに、生命をかけての俳句のアポリアへの挑戦」という感慨と、「この悪魔は、あなたがかかえこんでしまったところの、そしていまそこから何かを作りださねばならないところの(根本のところはすばらしい)材料なのです」というカフカの手紙の引用を以て論を締め括っている。
『星月の惨劇』所収の論考に、西川徹郎の文学世界と世界文学とを比較するものが多く現れたが、2000年、詩人・仏文学者櫻井琢巳が「銀河系つうしん」第18号より、ヨーロッパのシュルレアリスム詩や芸術と西川文学とを論じる西川論の連載を開始した。執筆半ばにして2003年櫻井は逝去する。だが、遺稿には、「西川俳句はいま、『古今集』的な美意識をつきぬけてそびえる一連の高い峰としてわれわれの前に立つ」を結語として、西川の日本文学一千年の歴史に対抗して屹立する文学性が証されている。
櫻井の渾身の西川論は同年『世界詩としての俳句-西川徹郎論』として沖積舎から刊行され、現在は〈ちゅうせき叢書〉の一冊として、又同社刊の『櫻井琢巳全集』第5巻所収として単行本化されている。
西川徹郎の文学世界である〈無灯艦隊〉は、これからも普遍的根源的な人間の〈実存〉を問い続け、世界文学としての軌跡を拓いていくだろう。
旭川西川徹郎文學館も又、西川文学の営為の一端を担ってゆくものである。(畢)筆者註=本文「永遠の夭折─少年詩人西川徹郎」は、2007年株式会社沖積舎より西川徹郎記念文學館開館記念出版として刊行された西川徹郎句集『決定版 無灯艦隊─十代作品集』巻末の斎藤冬海執筆の「解説」の転載である。載録に際しては新たに題名「永遠の夭折─少年詩人西川徹郎」を付け、多少の加筆を施した。
西川徹郎記念文學館館長・學藝員 斎藤冬海
-
NEW COLUMN